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ねたみの問題

2022年8月21日 主日礼拝宣教

「ねたみの問題」マルコによる福音書15章9~10節

      ガラテヤの信徒への手紙5章19-26節

 主イエスはなぜ十字架につけられたのか。人間はなぜイエス・キリストを十字架につけたのか。従来から三つの理由が考えられている。第一には、主イエスは「瀆神者」、つまり神をけがす者と見なされたために十字架にかけられたという。当時の律法学者や律法を守ることに熱心なファリサイ派の人からすれば、神を「わが父」と呼び、あるいはご自身を権威ある者のごとく語られたことは許し難いことであったと思われる。また、安息日に癒しをなし、悪霊を追い出すなど律法を守らず、主イエスを神の子と信じない人々の目には、かえって逆に神を冒涜する者だと見えたことだろう。

そして第二には、主イエスは「反乱指導者」に仕立てられて十字架にかけられたのだと言われる。当時ユダヤを支配していたローマ帝国からすると、「神の国」の福音を宣べ伝えたり、民衆からは「ユダヤ人の王」と誤解されて期待されるようになった主イエスは、ローマ帝国に対する反乱者として危険人物に見えたことだろう。

第三には、「神に見捨てられた者」として十字架にかけられたと言われている。十字架にかけられた主イエスは、道行く誰の目にも神から見捨てられた人に見えた。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになるのですか」という十字架上の主イエスの叫びは、人々の目には神から見捨てられた人間の憐れな姿に映ったに違いない。見捨てられた人間だからこそ十字架にかけられたのだと思ったとしても不思議ではない。

しかしこれら三つの理由ではまだ尽くされていないもう一つの理由が福音書には記されている。今日の聖書箇所の一つ、マルコ福音書1510節に、ピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」と書かれている。つまり、主イエスが十字架にかけられたのは、祭司長たちの「ねたみ」のためであって、主イエスは人々の「ねたみ」の犠牲になったというのである。

さて、ここから「ねたみ」について考えてみたい。聖書は人間の罪として「ねたみ」に注意を向けている。創世記4章の「カインとアベルの物語」もその中心に「ねたみ」の問題がある。兄のカインは弟アベルに対して「ねたみ」の感情を抑えきれず、殺害してしまう。また、同じ創世記3章にあるアダムとエバが罪に落ちる物語も「神になんとか等しくあろうとした」という問題に注意してみれば、神に対する「ねたみ」の問題として解釈することもできるのではないか。「ねたみ」は人間の罪の核心部分にある問題だと言ってもいいだろう。そこからさまざまな悪が出て来る源とも解釈される。「殺人」も「むさぼり」もそこから出てくる。

ガラテヤ書の今日の箇所の21節には、肉のわざとして「ねたみ」が挙げられている。そして26節には「ねたみあってはならない」と語られている。ねたみあっていたら、協力はできない。共に力を合わせて奉仕することはできない。反対にねたみのない人は、周囲の人間関係を自由な協力の空気で包むことができる。

「ねたみ」は特に現代的な病でもあると思う。なぜなら現代は激しい競争社会になっているからである。競い合って生きる社会になっている。競争原理は一方では確かに社会を活性化させるだろう。私たちを絶えざる努力、不断の前進へと駆り立てる。そのようにして、社会を進歩に向かわせる。しかしその競争原理は他方で成功と失敗の両方を生み出し、勝ち組と負け組という分断を生み出す。その結果、「ねたむ心」を刺激する。こういう社会にあって、私たちはどう生きたらよいのだろうか。「ねたみ」から自由に解き放たれた人生を生きることができるのだろうか。

聖書は「ねたみ」は罪であると言っている。罪であるならば、赦されなければならない。贖罪をくぐらなければならない。そのために聖書はキリストが私たちのために血を流し、犠牲になられたと伝えている。そしてそれによって私たちはキリストのものとされ、罪を赦されたというのである。キリストに結ばれ、キリストのものとされ、罪の縄目から解放されて自由にされた自分、その自分を生きる。それが深い意味で、自分本来の生き方ではないだろうか。聖書はそう理解し、そう告げている。またそう言ってよい証拠もある。それはその時、「喜び」があるからである。誰でも自分本来の生き方をすれば、喜びがあるはずだ。キリストによって赦され生かされている自分を生きる。その正しさは、その時湧き起こる確かな喜びによって証明される。また、キリストによって赦され生かされた自分を生きる時、「他者と共に生きる愛」も生まれる。他者がいなくなる、他者を殺すような意味で自分がいるのではない。本当の自分がいるならば、その時他者もまたいるはずではないか。キリストによって赦され生かされた自分を生きる時、私たちは他者を愛することを知る。「生きる喜び」と「他者への愛」が湧いてくる。これが、キリストによって赦され生かされた自分の本当の姿であり、そのように生きるよう導かれるのである。