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キリスト者の倫理は愛と自由

2022年8月14日 主日礼拝宣教

「キリスト者の倫理は愛と自由」ローマの信徒への手紙13章8-10節

 キリスト者の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方であるといえるだろう。パウロは8節で「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と言い、さらに10節で「愛は律法を全うするものです」と言い切り、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調した。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(139)などをパウロはここで取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。

 しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味である。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係をつくり上げる。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけ。信頼関係は生まれない。愛は信頼を生み出す。私たちはそのような愛し合う関係、信頼関係の中で安心して生きることができるのである。

 さて、もう一つの「自由」についてだが、聖書のいう自由は言いたい放題、やりたい放題の自由でないことは言うまでもない。聖書のいう自由とは、根本的な意味では、人間の罪と死と滅亡から解放される自由なのである。パウロは「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」(ローマ821)と言っている。神を無視して、自分本位に生きていると、かえってモノや地位に縛られていく。自由の不自由と言えるだろう。この罪のために自分で自分の首を絞めて自滅するといっていいだろう。

 この自分の罪を悔い改めて、自分の罪の身代わりにイエス・キリストが裁きを受けて死なれたのだと心から信じ切る時に、その罪責から解放される。元の自分と別れを告げ、神の子としての生涯が始まる。罪人が神の子につくり変えられるのである。罪の奴隷から神の子の自由に移し換えられるのである。神の子ならば神は父である。今や神は私たちの味方なのだ。パウロは「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ831)と言い、さらに「誰がわたしたちを罪に定めるのか」(ローマ834)と断言している。どんな敵からも自由である。神が必ずその敵に勝つからである。世間のどんな非難からも自由である。キリストは必ず、その非難をただすからである。このような自由は、「キリストの愛」が私たちから離れないとの確信にもとづく。十字架のキリストの愛を信ずる限り「患難・苦悩・迫害・飢え・裸・危難・剣」(ローマ835)に勝てる。神が勝利してくださるから。

 

 では、信仰によって罪と死と滅びから解放された自由人は、それで満足してしまってよいのか。パウロは、「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである」と言いながら、さらに「ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ513)と勧めている。キリスト者の自由は、愛するがゆえにわがままを捨てる自由である。したくなくてもする自由である。マルチン・ルターは「すべての人に対し自由な王であるが、愛するゆえにすべての人に対して奴隷のように仕える」と言っている。キリスト者の自由は不自由の自由と言えるだろう。キリスト者の自由は互いに愛し合うことへと向かう。