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用いられてこそ生きる

2022年7月24日 主日礼拝宣教

「用いられてこそ生きる」 ヨハネによる福音書12章20~26節

この世の常識では、主イエスの受難や十字架の出来事をとても輝かしい「栄光」と見ることはない。世間では、オリンピックで金メダルを取るとか、ノーベル賞を受賞するとかがこの世の「栄光」である。ところが、ヨハネ福音書は人がうらやむ光り輝く世界だけが栄光ではなく、暗闇を担いつつ、苦しみもがき、しかし、その暗闇の中でこそ輝く光こそ、主イエスの栄光だと語っている。

 それは受難と十字架の死を通して多くの命が実を結ぶからである。もしその一粒が蒔かれなければ、つまり自己保身や自分可愛さのために、十字架の出来事が行われなければ、全人類の救いは起こらなかった、ということでもある。一粒の麦の死、主イエスの十字架の死を通して命が実る。失うことによって多くを得る。そういう命の大逆転。敗北から栄光へ。悲しみから勝利へと大転換する。そういう恵みが上から与えられる。これが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われている「主イエスの栄光」である。

 当たり前のことであるが、私たちは一人では生きられない。多くの支え、親、兄弟の愛情や友の助けも要る。逆に言うと、一人前に育てるには手がかかる。命にはコストがかかるのである。その最大のコスト「犠牲」こそ、主イエスの十字架ではないだろうか。私たちの自己中心的な生き方、神から離れてしまっている心、それらの罪を背負うために、主イエスは尊いご自身の血を十字架の上に流さねばならなかった。それは決して「廉価な恵み」ではない。尊い犠牲である。主イエスはゲッセマネの園で苦しみと戦い(27)、だが父なる神への従順と祈りによって(28)、やがてその御業を成就された。その十字架の死の彼方に神がなそうとする救いの目標が、あの麦の譬えの中に言い表されているのだ(24)

 主イエスが十字架に死なれ、そして多くの実を結ぶ。その結ばれた実が教会である。そのキリストの体なる教会につながる私たちもその実の一つとされている。私たちはなお欠けの多いものだが、赦され、癒され、生かされている。そのために主イエスは十字架の上に栄光を表したのである。今朝、こうして礼拝しているのは、この主の栄光があるからだ。そしてその中で、私たち自身もまた「一粒の麦」とされるのだ。主に仕える者とされ、主のために地に落ちて死ぬ一粒の麦とされ、主のために実を結ぶものとされたことを喜びたいと思う。

 では具体的にその生き方とはどのようなものだろうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」。まさにそのとおり。「宝の持ち腐れ」という言葉がある。お金をいくらタンスに溜め込んでもただの紙屑。「お金は使ってなんぼ」、使ってこそ初めて価値を持つのだ。私たちも与えられた賜物を用いてこそ輝く。出し惜しみしないこと。

 

 野菜は食べてもらってこそ生きる。余ったから捨てるなんて、それでは一生懸命大きくなって実を結んだ野菜に失礼、申し訳ない。野菜は泣いているだろう。農家の人も泣いていることだろう。おいしく食べてあげてこそ、その野菜はその生涯を全うする。野菜も喜ぶのではないだろうか。農家の人も作り甲斐があるというもの。 道具もそう。金槌は道具として使われてこそ金づち。金槌も喜ぶことだろう。建物もそう。車もそう。なんだって用いてこそ生きるのだ。喜ぶことだろう。ただし、ちゃんと手入れをしてやらなければいけない。かわいがるということ。愛着を持つということ。大事に使うということ。人間の生き方もまさにそうではないだろうか。寿命が長い短いではない。主のために十全に、精一杯、生ききることが求められる。与えられた「命」、与えられた賜物、与えられた恵み、十全に使い切ろう。自分の命を大事にしよう。そして主のために生きる人生を、隣人のために生きる人生を生き抜こう。一粒の麦として、地に落ちて多くの実を結ぼう。