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赦しと契約

2022年7月3日 主日礼拝宣教

「赦しと契約」エゼキエル書16章59~63節

 エゼキエル書はイザヤ書、エレミヤ書と並んで三大預言書と言われている。時代は南ユダ王国がバビロニア帝国に侵略、支配され、後に王や高官、主だった技術者たちが捕囚の民としてバビロンに連れて行かれた、いわゆるバビロン捕囚の時。紀元前6世紀の後半。この時代に生きたエゼキエルはエルサレムの神殿祭司の子で自らも祭司を務めていたが、バビロンに捕囚の民として連れて行かれ、その地で預言者として召命を受け、神の言葉を捕囚の民たちに語った。そのエゼキエルの預言がまとめられたのがこのエゼキエル書である。

 さて、この16章には、エルサレムに象徴されるイスラエルの民の罪を昔までさかのぼって、白日の下に暴き立て裁かれる神は、同時に決して彼らを見捨てることのないお方であることを告げた預言の言葉が書かれている。そのようなエゼキエルの預言は、バビロン捕囚の苦しみは、かつて住んでいたエルサレムを懐かしく思い出させるのではなく、かえって彼らの犯した罪とそれにもかかわらず見捨てることなく見守ってくださるお方に対する信仰を捕囚の民たちに呼び起こしたのではないか。

 エルサレムは古い昔、野に捨てられた存在であって、主であるお方とは無縁の存在であった(165)と書かれている。しかし、神はその傍らを通り過ぎられる時、「(血まみれのお前に)生きよ」(166)と声をかけられたのであると預言の言葉は語る。生々しい神との出会いのさまである。その後、神はエルサレムを美しい娘にまで育てたのに(16913)、彼女は姦淫の罪を犯し(1615)、今やその責めを負っているのだ(1658)と言われる。この姦淫の罪とは異教の神々への偶像礼拝の罪のこと。にもかかわらず神は、「わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、おまえに対して永遠の契約を立てる」(60)と言われる。いったん、信仰者として「生きる」ことを得た者は、この永遠の契約に生きる者とされるのである。

 エルサレムには神殿があり、神聖な町であると、ユダとエルサレムの人たちから尊ばれてきた。また世界中の人たちから聖地であると言われてもきた。しかし、エルサレムは最初からそうであったのではなく、本来は異教的な一つのみじめな存在であった。それを神が見出し、恵み、祝福したからこそ、エルサレムは素晴らしい町となった。

 ところがエルサレムは、神から自分が何のために召されて祝福され、恵みを受けたのかを忘れて、自分のほしいままにして、恵みをいたずらに受けてきた。それゆえにエルサレムは、神から裁きを受けなければならなかった。

 エルサレムが神を見出したのではなくて、神がエルサレムを見出したのだ。エルサレムは捨てられたものであり、値打ちのないものであったけれども、神が見出されたのだ。この世の人たちは、宝は探すけれどもちりあくたは捨ててしまう。しかし、神はちりあくたのようなものを探し出されたのだ。ご覧になったのだ。「わたしのものだ」と言われたのだ。エルサレムが素晴らしくなったのは、神が着物や、飾りや、指輪や、恵みを施されたからであって、エルサレム自身には何も誇れるものはない。「ところがエルサレムは自分の美しさを頼み、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った……」と主なる神は問い続けられる。

 

 しかし、「永遠の契約をあなたと立てる」(60)とあるように、エルサレムがどんなに背いても、あなたを赦すという神の契約が記されている。また「わたしがあなたをゆるす時」ともあるように、娘として、恵みとして、その時に引き受けて赦してくださると言われる。これは、イエス・キリストの到来を預言している。エルサレムと同じように、罪に汚れた者も、神が洗い清めて「わたしのものだ」と言ってくださるのである。その無条件で一方的な恵みを今一度深く思い至らせたいと思う。