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一粒の麦は、多くの実を結ぶ

2022年6月26日 主日礼拝宣教

「一粒の麦は、多くの実を結ぶ」ヨハネによる福音書12章20~26節

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。このみ言葉は、主イエスが十字架にかかられる直前、教会暦でいう受難週の中で語られたみ言葉である。今朝はそのことに注意を向け、また私たちにとってこのみ言葉がどういう意味を持っているのか、そのメッセージを聞きたいと思う。

 今日の聖書箇所のすぐ前を読むと、主イエスのエルサレム入城の時であったことが分かる。「ろばの子」に乗って、人々の「ホサナ、ホサナ」という歓呼の叫びに迎えられながら、主イエスはエルサレムの町に入られた。棕櫚の主日のこと。そのとき人々の中に、「何人かのギリシア人」がいたというのだ。この人たちはユダヤ人から言うと異邦人だが、彼らも「祭り」、つまり「過越しの祭り」に来ていた。それも「礼拝するためにエルサレムに上ってきた」人たちだった。つまり彼らは、ユダヤ教に改宗したギリシア人だったと考えられる。そして十二弟子の一人であるフィリポのもとに来て「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだというのだ。それからフィリポはアンデレに話し、アンデレとフィリポは連れ立って、主イエスのもとに行って、そのことを話したとある。

 ここで注意したいことは、まず、ギリシア人たちが「イエスにお目にかかりたい」と願ったということ。そして、その願いをきっかけとして、それに答える中で、あの「一粒の麦は…」のみ言葉が出てくることだ。礼拝に来た人々が「イエスにお目にかかりたい」と願うことは、意味深いことである。

 改宗したギリシア人たちは、すでに主イエスのことを聞いていたのであろう。このギリシア人たちがどういう状態にあり、どういう救いを求めていたか、それは記されていない。ギリシア人は知恵を求めると言われる。しかし人間の知恵では解決のつかない問題に苦しんでいたかもしれない。彼らは傷ついた魂の「癒し」を求め、民族を超えた「和解」を求めていたのかもしれない。あるいは、弟子になりたいと思ったのかもしれない。それを契機に、「人の子が栄光を受ける時が来た」という宣言がなされ、主イエスに従うとはどういうことかが示されたと理解することもできる。

 「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われた、この栄光は、続けて言われた「一粒の麦」の表現にあるように、「地に落ちて死ぬ」ことである。主イエスは「十字架におかかりになること」をご自身の栄光として決意された。この栄光というのは、神と一体の方として高く挙げられること。しかしそれが、十字架に苦しみを受け、死ぬことと一つなのである。主イエスが栄光を受け、十字架に死なれることで、ギリシア人たちとお目にかかるわけである。「一粒の麦」として主イエスは地に落ちて死ぬ、それが主の栄光であって、それによって「多くの実を結ぶ」というのである。キリストは私たち皆のために死なれたのだからである。

 私たちが今朝、主のお目にかかるのは、主が地に落ちた麦として死んでくださったことによってである。そのことによって多くの実を主が結んでくださったからだ。その実の一つに加えられることが、主とお目にかかることである。

 主イエスが十字架で死なれ、そして多くの実を結ぶ。結ばれた実が教会ではないだろうか。私たちもその実の一つとされている。私たちはなお欠けの多いもの。しかし赦され、癒され、生かされている。そのために主イエスは十字架の上に栄光を表したのだ。今朝、こうして礼拝しているのは、この主の栄光があるからだ。そしてその中で、私たち自身もまた「一粒の麦」とされたのではないだろうか。主に仕えるものとされ、主のために地に落ちて死ぬ一粒の麦とされ、主のために実を結ぶ者とされたことを喜びたいと思う。