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信仰・希望・愛

2022年6月19日 主日礼拝宣教

「信仰・希望・愛」第Ⅰコリント13章1~13節

 第一コリントの13章は愛の賛歌と呼ばれて大変有名な箇所である。 この美しい愛の賛歌は三つの部分に分かれている。1-3節には愛の必要性。4-7節では愛の特質。8-13節では愛の不滅性が語られている。

 まず、1~3節だが、「たとえ……しようとも、愛がなければ……である」という言い方で、三つの文が並んでいる。1節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」 あらゆる種類の優れた異言を語ることが出来ても、愛がなければ、そうぞうしくかえって迷惑である。愛なき異言は騒がしいだけ、と言い切っている。

 2節、3節も同じパターンで述べている。しかし、誤解してはいけない。パウロはこれらもの(異言、預言、知識、信仰、教え、奉仕、殉教)を単純に軽んじて否定しているのではない。ただ愛が伴わないなら、それらのものは空しくなると言ったのだ。愛が必要条件であるというだ。信仰も知識も教えも奉仕も否定されるものではなく、価値あるものであるが、それが愛において全うされる、完全にされると言っているのだ。

では、その愛とはなんであるかだが、二つ目の部分、4~7節、ここに愛の特質、愛とはどのようなものであるかが述べられている。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。……」

 このような書き方に二つの特徴がある。そして、そこから愛の特質を理解することができる。一つは主語が「愛」であると言うこと。もう一つはその主語である「愛」が擬人法、人にたとえるように表現されていること。「神は愛なり」だから、主語である「愛」のところを「神」と読みかえてみると、「神は忍耐強い。神は情け深い。……」 ここには「神は愛である」というメッセージが隠されている。

 もう一つ、擬人法で語られているということは、愛は抽象的なものではなく、愛は生きて働くもの、愛はもっぱら行動に即してのみ語られるということを意味している。ここでは、動詞が15も使われている。すなわち、愛は行為であり、その行為は愛の働きであるということだ。そして、行為の主体は愛であり、すなわち神である。神ご自身が働かれるのだ。本質的に愛である神が、愛の行為をされるのだ。そして、そのことが何であるかが我々に知られるのは、究極的にはキリストの十字架である。キリストの愛は自己を犠牲の供え物とし、献身し(ささげ)、仕える愛であるということだ。神の愛はキリストの愛であり、十字架の愛であるというメッセージがここにある。

 最後の三つ目の部分は、愛の不滅性である。「愛は決して滅びない。」 愛のみは不滅であるということ。先ほど「神は愛なり」だから、愛を神と読み替えてみた。同じように「愛は決して滅びない」を神と読み替えると「神は決して滅びない」となる。神の永遠性、不滅性を言っているわけだ。他方、造られたもの、そこから出る物、花は散り、木の葉が落ちるように諸々の霊の賜物、預言や異言や知識は廃れるであろうというのだ。なぜなら、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」。不完全であり、相対的であり、部分的だからだ。だから10節「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れ」るのだ。「そのとき」とは「完全なものが来たとき」であり、それはこの世と歴史の終末の日、キリストが再臨し、栄光の神の国が現れる時である。その時、部分的なものは完全なものの前では不必要である。鏡で見るように間接的にしか見ることの出来ないものは、その時、直接的に「顔と顔とを合わせて見ることになる」時、必要ではないのだ。

 ここでパウロは終末の待望の信仰から語っている。終末はまだ来ていない。それゆえ、終末が来るまでの間存続し続けるものがここで提示される。「信仰と、希望と、愛」である。この三つは、キリストに愛され、生かされ、新しくされた信仰者のあり方、生き方を示している。私たちの信仰は神の義と結びつき、そこに救いの唯一の根源を求める。そして、そこから来たるべき神の国を待ち望む。さらに、神の愛を通して現実の生活を生きるのだ。

 

 信仰、希望、愛は抽象的な概念ではなく、今生きる私たち信仰者の生き方の目標ともなり得るべきものであり、それを具体化して日々生きるよう求められている。