2022年6月5日 ペンテコステ礼拝宣教
「風は思いのままに吹く」 ヨハネによる福音書3章8節
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」
このみ言葉、一度聞いたら忘れられない、本当に含蓄のある言葉。このみ言葉から、いろいろなことを考えさせられたり、思わされたりする。たとえば、世の中、何が起こるか分からないよ、ということを教えてくれる。私たちが将来をいろんなふうに考えて、こまごまと計画を立てていても、突然な何か事故が起こって駄目になってしまうことがよくある。また逆に、ダメだと思ってほとんど期待もしてなかったことが、何か助けが入って、とんとん拍子にうまくいくということもある。風は思いのままに吹くのである。予想もしなかったことが起こってくるのである。だから私たちは、あまり何もかも勝手に一人決めしないで、心の中のどこかで余裕をもって、もしかするとやって来るものを「待つ」という態度が大事だということ。もちろん、ただ待っていればいいというわけではない。何も努力しないで、ただ待ってばかりいるというのではつまらない。ただ待っているだけでは、いい結果は得られない。そういうのは、本当は「待つ」ということではなくて、ただボーッとしているだけ。しかし、いろいろと準備をしたり、努力をしたりしつつ、ほんの一呼吸待つという余裕が大事だということ。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざに重なる。聖書的に言うならば、「人事を尽くして、あとは神にゆだねる」、「人事を尽くして、神に期待して待つ」ということになるだろう。そうするとずいぶん、気が楽になり、自由になれる。
「風は思いのままに吹く」の「風」とは聖霊なる神のこと。だから、言葉を変えて言えば、神さまは自由だということ。誰も、神さまのなさることをあらかじめ決めてかかることはできない。私たちはもちろん、これからどうなるかを予想することはできる。私たちは何度も、繰り返しこれからの予定、計画を立てる。自分の人生設計もそうだ。30代になったらこう、40になったらこうするなどと計画を立てることはできる。しかし、予定通りにいかないということもある。いやむしろ、人生というものは、実際には予定通りにいかないことの方が多いのではないか。
予定通りにいかないからといって、嘆くのではなくて、むしろ予定から外れっぱなしであるという、そのところに私たちの人生の面白みがあるんだ、つまりそのところで私たちは実は神さまに出会っているんだ、ということを知ってほしい。
予想もつかない事態で驚いて腰を抜かす、驚きあきれる、心をかき乱される、悩んだり、情けなく思ったりするということがある。あるいは逆に嬉しくて、夢じゃないかと目をこすったり、ほっぺたをつねってみたりするということがある。その時に私たちは、神から吹いてくる風の音を聞いているのである。
神は自由に私たちに語りかけ、私たちを救われる。だから私たちは、これからの人生でどんなつらいこと、悲しいことがあったとしても、そのことで絶望することはない。どんなに行き止まりの絶望的状況に思えても、この地上が真っ暗闇であるように思えても、私たちはなおも、将来に希望を持ち続けることができる。たとえ私たちの目には暗闇しか見えなくとも、私たちは自分の愚かな目を信じるのではなく、神さまの深い導きをこそ信じるからである。「風は思いのままに吹く」、そのことを私たちが本当に理解した時、そのつど新しくこの人生に向かって旅立つ勇気が湧いてくるのである。
風は思いのままに吹く。私たちのあらゆる思いを超えて、はるかかなたへと、風は吹き過ぎてゆく。私たちの思いがけないところで、風は吹いて来て、私たちの小さな思いを吹き飛ばしてくれる。そのような神の自由、信仰の自由を味わったことがある者、それを信じることができる者は幸いである。