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信仰から出た友情

2022年5月15日 主日礼拝宣教

「信仰から出た友情」マルコによる福音書2章1~12節 

福音は私たち人間にとって驚きだ。主イエスの教え、主イエスの御業はどれをとってみてもみな驚きである。私たちは主イエスの話を聞いて、「とても素晴らしいお話でした」とも、「立派なお話でよく分かりました」と腹にストンと落ちることはない。当時の人々もひたすら驚いたのだ。山上の説教のところだが、マタイ福音書728節にも「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とある通りだ。今まで聞いたことのないことを耳にした人々の反応がうかがえる。今日の箇所もそうだ。12節「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」とある。神の言葉や神の御業は、そのような反応を人々に起こすのだということである。神の言葉が語られるところでは、人々の心も揺さぶられ、騒ぎ立つのである。

もともと神の言葉は人間にとって異質であるばかりか、むしろ受け入れ難いものだ。「立派な教えです」「有難いことです」と歓迎して受け入れられる類の心地よいものを持っていない。「そんなことは聞いたことがありません」と言うのが正直な私たちの反応ではないだろうか。もし神の言葉を聞いて、「よく分かりました」というほどのものであれば、それは人間の言葉の範疇にとどまるだろう。神の言葉は、人間の理解を超えるのは当然だと言わねばならない。その意味では、聞いて驚くのが自然の反応である。驚かなければ、逆に神の言葉ではない。新生讃美歌50番にある通り、「ああ驚くべきイエスの愛よ」である。

さて、私が今日の聖書の箇所で驚くのは、「イエスはその人たちの信仰を見て」と語られていることだ。主イエスが、「中風の人の信仰を見られて」というのではない。あるいはまた、中風の人が悔い改めて主イエスの所に来たので、というのでもない。中風の人が何かをしたとは全く語られていない。自分で主イエスに近づいたというのではないのである。本人は何もしていないのだ。でも、救いはその人のところに来たのだ。驚くべきことである。

主イエスはこう言われる。「イエスはその人たちの信仰を見て……」。誰の信仰であろう。中風の人を運んで来た四人の信仰である。中風の人の床を持ち上げ、重い床を主イエスのおられる家まで引きずってきて、屋根にまで高く運び上げて、屋根をはがして、綱をつけて、主イエスの足下にまで男を降ろした四人の信仰である。この四人がいなかったら、中風の男はどうなっていただろう。いつまでも、死ぬまで、いつもの自分の居場所に居続けて、生涯の決定的な転機を経験することもなかったであろう。完全に救いのない生涯、祝福されない人生、これからどうなるのか、もはや知ることもないような状態。しかし、この中風の男のために労を惜しまず運んでくれた四人がいてくれたということが、この人に救いをもたらしてくれた。これは驚きの出来事であると同時に、私たちにとって希望の物語となる。自分の努力や修行や業績ではなく、救いは向こうからやってくる。主イエスからやってくる。そのためのとりなしをしてくれる者がいるということ。まさに希望である。

ところで、私は一人の友のために四人の友が必死になっているこの話に「友情」の世界を垣間見る。それはもちろん信仰から出た「友情」だ。4人の友の信仰とは、主イエスに対する信頼である。あのお方なら癒してくださるという信頼だ。ならば、あの中風で苦しんでいる友を連れて行って癒してもらおう、という友情である。だから、「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれている。彼らの主イエスに対する信仰から出た友情である。彼らがこの中風の人とどんな関係だったのか分からない。しかし、一人の友のために屋根をはがし寝床をつり降ろすという行動に感動を覚える。現代の日本は、人間関係そのものが希薄になり、仕事や趣味など、何か一緒に協力してやることはあっても、それが終われば個人の世界に戻り、それほど繋がらないような時代である。人間関係に淡白だと言ってもいいだろう。孤独な世界が蔓延し、一緒に「事」はできても、一緒に「人」「人格」に向き合うというような連帯性や親密性を持つことが難しい時代なのではないだろうか。だから、やたらと「繋がり」とか「絆」という言葉があふれているのではないか。

私たちは「屋根をはがし、寝床をつり降ろす」ほどの大胆で大変な努力を要することはできないかもしれない。しかし、信仰から出た友情を共に分かち合いたいと思う。たとえそれがささいなことであっても。神の愛から出た友情を共に分かち合いましょう。