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日々恵みに追われて

2022年5月1日 主日礼拝宣教

「日々恵みに追われて」詩篇23篇1-6節

 この23篇は、詩篇の150篇の中で、これまで最も愛唱されてきた歌だといわれている。私もこの23篇を何度も読み、特に6節の「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」という約束の言葉によってどれだけ力づけられてきたことだろうか。「命のある限り」とある。死ぬまで、天国に行くまでというのである。そして神の恵みと慈しみが「いつも」、悲しい時も苦しい時も悩みの時もいつも、「わたしを追う」とある。追っかけてくるというのだ。私が神にそっぽを向いても、神に無関心であった時にも、神に対して不信感を持った時もである。何という神の深い愛だろうか。

 本当にこの23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきたのである。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して、「主がそれをなしてくださった」と率直に告白しているからである。そしてこれが私たちの希望であり、信仰の立ち位置なのであることを教えてくれる。

 羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景だ。しかし、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもある。23編の中で何度も「主はわたしを……」、「あなたがわたしを……」、「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いである主であると告白しているのだ。

 現実の羊飼いがどれほど過酷な職業であるかは、創世記に描かれているヤコブの姿によく表れている(創世記3138以下)。主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ1011)。激しいまでの過酷な労働を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。

 私たちは信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出席しても単に守るべきものとして出席しているだけで、そこには何の喜びも感謝もない時がある。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っているだけでは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。

 信仰は発見しなければならない。信仰は見抜かなければならない。そのためには気づかされる必要がある。そうして信仰は与えられる。そこで神と出会わされる。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置くという、そこに立つことができるのである。気づくということ。気づきの連続といってもよいだろう。だから、日々感謝の生活ができるのである。そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン(確かにその通りです、しかり)、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。

 

 5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっている。「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」。追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださる。これにまさる喜びと感謝はない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。その主に祈りをもって応えていこう。「主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。主の家に帰ろう。