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復活とは何か?

2022年4月17日 イースター礼拝宣教

「復活とは何か?」ルカによる福音書24章36-49節

最初にはっきりさせておきたいことは、復活とは死んだ人が墓から今一度、この三次元の世界(いわゆるこの世)へと生き返ってくる蘇生ということではないということ。聖書のいうよみがえり、復活ということとは根本的に違うということだ。イエスが復活したということは、墓から出てきて弟子たちと一緒にこの三次元の世界(この世)を歩き回ったというようなことではさらさらなくて、神の御手に、ということは神の国において永遠の命に復活した、よみがえったということなのだ。

 確かに、今日の聖書箇所では、復活したイエスが弟子たちの食事をしているところに現れ、魚を一緒に食べられたというような記事が書かれている。文字通り読めば、イエスが三次元の世界(この世)に生き返ってきたかのように読み取れるような表現である。しかし後で詳しく触れるが、宗教体験というのは深く人間の深層意識に根ざしている。この宗教体験というのはなかなか言葉では表現しにくいところがある。従ってこの体験を普通の表層意識での言語で表現しようとすれば、いきおい象徴性を持たせざるを得なくなるわけである。

 いま、「ルカによる福音書」の表現を追ってみよう。弟子たちが食事をしているところに復活したイエスが現れた時、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されている。なぜ弟子たちはそんなに恐怖に震えあがったのだろうか。

 もちろん亡霊だと思ったからもあるだろうが、実は震え上がったのにはそれ以上の理由があったのだと思われる。すなわち弟子たちはイエスの怨霊が現れたのだと思ったのではないだろうか。

 まだイエスと一緒にいた時、弟子たちは、「私たちは先生一人を見殺しになぞ決していたしません。一緒に死にます」などと言っていた。しかし、いざとなると命が惜しくて完全にイエスを見殺しにしてしまった。ただ何処遠くから見ているだけだったのだ。そのうち謝る間もなく、イエスは十字架上で、苦悩と孤独と屈辱の死を遂げてしまった。弟子たちは、さぞかしイエスは我々のことを恨みながら死んで行かれたに違いない、そのような意識にさいなまれて、自己嫌悪と恐怖の時間を過ごしていたに違いない。弟子たちは当然それなりの天罰を受けることを覚悟していただろう。

 ところが、この物語の表現によれば、そこに現れたイエスは弟子たちを罰したり恨んだりせず、魚を取って一緒に食事をしたというのだ。これは弟子たちを裁かずに赦しているということである。神の御手のうちによみがえられたイエスは、裏切った私たちを赦し、今も生前と同じように私たちを同伴者として大切にしていてくださるのだ、そう受け取ったのだ――これが弟子たちの復活体験の核をなすものである。この赦されているということの深い宗教体験は、目には見えない聖霊の働きによって導かれたものである。

 実際はこの物語は、出来事を客観的に述べたものではなく、本来深層意識に根ざしている深い宗教体験を、表層言語に象徴的意味合いを持たせて語ったものなのだ。その時、聖霊の助けがあったことは言うまでもない。

 それは宗教の世界(信仰の世界)における真実は、科学の世界のように主観から冷たく切り離された客観的真理を求めるものではなく、あくまでも主体との関わりにおける主体的真実を求めるものだからである。言うなれば、神との主体的な関わりの中にその真実があるということだ。これが信仰といわれることの本質である。

 もう一か所、復活の記事を見てみよう。ルカ福音書24章の最初のところ。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。」(ルカ245)。主の葬りの墓に赴いた女性たちに天使が現れて言った言葉である。天使はイエスが生きておられると言うのだ。復活信仰の中心メッセージはこれをおいてほかにない。この信仰がなければ、キリスト教信仰は今日あり得ないだろうし、また教会は命を失う。生きるキリストは、この世を働き場とされる、これが私たちの復活信仰であって、この世に生きることを輝かしいものにする根源である。イエスが生きておいでになるということは、考えても分からない。もし考えて分かるようなら、分かっただけの信仰の持ち主でしかない。それでは頭の中の信仰であり、自分の中での知的作業に過ぎない。分からないからこそ、永遠であり、究極であるキリストにわたしが結ばれていることを真実とする信仰が生まれるのだ。そこには聖霊の助けがある。主の復活を信じる信仰は、ひたすら驚きと恐れを引き起こすのみ。聖書の中に登場する、主の復活の証人たちの反応はみなそうだった。逆に言えば、驚きと恐れのない信仰には、人の知恵が働くかもしれないが、神は働いておいでにならない。

 

 私たちはただ驚きと恐れをもって主の復活を受け入れ、十字架による贖いと赦しを感謝をもって信じるのみである。