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我らの国籍は天に在り

2022年4月3日 レント第5主日礼拝宣教

「我らの国籍は天に在り」フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節

 20節に「わたしたちの本国は天にあります」とある。口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていて、さらに文語訳聖書では「我らの国籍は天に在り」と訳されている。いずれにしても、キリスト者の本質、隠された性格を言い表している聖句だと思う。大事なことは、この聖句が私たちの信仰生活の中で力を発揮しているかどうかである。この聖句によって私たちはもっと慰められるべきではないか。もっと励まされ、もっと明確に私たちの歩む方向を示されるべきではないか。

 「我らの国籍は天に在り」という信仰に生きる私たちの人生は、一体どういう具体的な姿になるのか。二つのことが言えるのではないか。一つは、私たちの人生は旅であると位置づけて、その「旅」はまだ終わらないということである。その旅はどこに向かっているのかというと天国、神の国である。だから天にある本国に向かっての私たちの旅はまだ途上にあるということだ。

一方で、私たちは「天から主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています」。怠惰に寝転んで待つのでもなく、また今か今かと落ち着きもなく待つのでもない。すでに主を信じて、天に国籍がある者として、キリストの市民、キリストの大使として、この地上の旅を続けながら、待つのである。待つと同時に天に向かって地上での旅、生活に励んでいるのだ。

 もう一つのことは、「この世のことに対して正しい距離を持つ」ということである。「この世のことしか考えない」というのは「距離」がないことになる。巻き込まれすぎて、天の国籍のことを忘れてしまう。「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとする」ことになってしまうのだ。地上のものを神の位置に置いてはならない。キリストによって私たちにはこの世の価値は限定されている。天に属することで、この世の終わりを見ている。終末論的に生きていると言っていいだろう。それがこの世に対して正しい距離を持つということだ。別の言い方をすると、自分の人生のみならず、社会、世間、この世界に対して相対化して生きるということ。そうでないと、いつの間にか、この世の価値しか頭になくなって、この世のことだけが心を占領して、まさに主にあるキリスト者のあり方、主にある自由を失ってしまうことになりかねない。

 

 「正しい距離」を持つことは、しかし地上の一切のことに無関心、冷淡になることではない。地上には苦難があり、悩みがあり、苦しんでいる人々がいる。人災があり、天災がある。パウロは今、牢獄の中にいる。フィリピの教会の人たちはパウロのために祈り、支援している。また、パウロは大飢饉に苦しむエルサレム教会のために募金をし、それをエルサレム教会に届けた。そのように昔も今もキリスト教会はそのような人々のために祈り、支援をしてきた歴史がある。国籍が天にあるということは、この世に「派遣」されているということでもある。だから「派遣」された者としてこの世に生きるのである。それゆえに共に生きて、地上の困難から少しでも助け出す工夫、支援、祈りを傾けるのである。そうした働きを通して、主が助けてくださることを伝える。伝道と奉仕に生きるのは天に国籍を持った、私たちの使命である。そのようにして、私たちの信仰生活でも、「我らの国籍は天に在り」ということを具体的に行動し、発揮しなければならない。国籍が天に在る者として。