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本当の生きがい

2022年3月27日 主日礼拝宣教

「本当の生きがい」フィリピの信徒への手紙2章25-30節 

今日の聖書個所に出てくるエパフロディトという人はフィリピの教会から、獄中にいる使徒パウロのもとに贈り物を届け(4:18参照)、身の回りの世話をするために遣わされて来ていた。しかし、彼は瀕死の重病になってしまった。パウロを助けなければならないのに、反対に心配や迷惑をかけることになってしまった。しかもそのことがフィリピの信徒たちの耳に入ったので、心苦しく思っていた。間もなく病気は癒されたが、心身ともに弱り、早くフィリピに帰ってみんなに会いたいと願っていた(26)

そこでパウロは、「エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています」(25)と言うのだ。しかも「わたしの兄弟、協力者、戦友」として、フィリピの教会へ帰す(遣わす)というのである。その理由は「神は彼を憐れんで下さいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで」(27)くださったからである。病気が治ったのは自然や偶然ではなく、神が憐れんで下さったからなのだと言うのだ。彼はどうすることもできない限界の中で、自分の力やわざによってではなく、神の憐れみによって生きているのだということを経験し、同時に暗い獄中にあるパウロも、神が憐れんで下さっていることを知って、深い慰めを受けたのである。

人は深いところでは、憐れみなしには生きることができない。思いがけない病気や事故、どうすることもできない罪と死、この世の悲惨と絶望の中で、人々は「主よ、憐れみたまえ」と繰り返し祈ってきた。ルカ福音書18章の「ファリサイ派の人と徴税人の祈り」では、徴税人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った祈りが彼の絶望から希望を与えたことが書かれている。また同じルカ福音書18章に、「物乞いの盲人」が登場するが、彼もまた「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのだ。このような祈りの中で、神はキリストにおいて、憐れみをあらわされたのである。

それは第一ヨハネの48節にあるように「神は愛だからです」。続けて第一ヨハネ4章では「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」(49)と書いてある。まさにそれである。旧約聖書のゼカリヤ書に、「わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。」(106)というみ言葉がある。「憐れむゆえに連れ戻す」という言い方。皆さんはこの言葉からどのようなニュアンスを読み取りますか。「憐れむゆえに」、私はここに神は憐れむお方である、それも無条件に、一方的に憐れまれるお方であるということを強調する言い方だと受け取った。

私たちは自分の力で生きているように錯覚しているが、ただ神の憐れみによって生きているのだ。この世の現実が、冷酷な運命や悪魔の支配の中にあるように見えても、十字架において示された神の憐れみの御手の中にあるのである。エパフロディトはそのような神の憐れみ、無償の愛の証人となったのである。だから29節に「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」とパウロは言うのである。

 

さらに彼を敬うべき理由について、重ねて強調する。「彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」(30)と。賭けをするような思いで、命をかけたというのだ。人生は一つの賭け。一度限りの人生で、問題は何に賭けるかということである。私たちはキリストに自分の人生をかける。なぜならキリストは罪深い私たちのために、命をかけてくださったからである。本当の生きがいは、自分が何をするかではなく、神が何をしてくださるかということの中にある。だから、第2次世界大戦後、第2国連事務総長なったダグ・ハマーショルドは次のように言っている。「使命のほうがわれわれを探しているのであって、われわれのほうが使命を探しているのではない」。神の憐れみ、神の愛の中にあって、神から示された使命に生きる、いや生かされていくことこそ本当の生きがいではないだろうか。神の憐れみの証人、キリストの香りとして生かされるところに、真の生きる意味があるのではないだろうか。