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もう一つの引き渡しのドラマ

2022年3月20日 主日礼拝宣教

「もう一つの引き渡しのドラマ」 マルコによる福音書14章43~50節

 今朝の聖書箇所マルコ福音書の1444節にある「裏切る」という言葉だがギリシャ語では「引き渡す」という意味で、新共同訳聖書では「裏切る」と「引き渡す」を場面に応じて訳し変えている。だから裏切りの行為は引き渡しの行為という意味を含んでいる。その言葉はマルコ福音書ではすでにイエスの受難予告のところで2回出ている(マルコ9311033)。

 この「裏切る(引き渡す)」という言葉は、マルコ福音書では10回使われているが、ユダに対して5回、祭司長たちに対して2回、ローマの総督ピラトが1回、人の子(イエス)が「引き渡される」と受身形で2回使われている。これを見ると、ユダだけが「引き渡す(裏切る)行為」を行ったのではないことが分かる。もちろん、ユダがイエスを「引き渡す」ことが引き金となって、祭司長たち、続いてピラトも「引き渡す行為」に加わっていくわけだが、これを図式化すれば、「ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し」、続いて「祭司長たちはイエスをピラトに引き渡し」、そして最後に「ピラトはイエスを十字架に引き渡した」となる。このように「引き渡し」が人の手から人の手へと、次々と行われていることが読み取れる。受難物語は、実はユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される出来事を描いているものなのである。

 ところで、この受難物語は聖書には書いてないが続きがある。ユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される。そして主イエスは十字架につけられた。真実に言うならば「今もつけられている」のである。今も血を流しておられるのである。なぜなら、この私が、この私たちがピラトに続いてイエスを「引き渡している」からである。

 それをパウロは、第一コリント123節や22節、あるいはガラテヤ31節などで「十字架につけられた」と書いている。この「十字架につけられた」と日本語では訳されているギリシア語は、過去のある一点で十字架につけられたという意味での過去の動作を示すアオリスト形の分詞ではなく、現在完了形の分詞で書かれている。現在完了形の分詞は、完了した動作が継続していることを強調している。ということは、すなわちパウロは、単に「過去のある一点で十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えているというのではなくて、「今もなお十字架につけられたままでおられるキリスト」を宣べ伝えている、ということになるのである。つまり、キリストは今も、私たちの弱さ、欠け、醜さ、罪、とがを担い続けておられる方なのだ、とパウロは言いたいわけなのである。ちなみに、文語訳聖書では「十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト」(ガラテヤ31)と訳されている。

 さて、この「引き渡す」という言葉は、同時に「ゆだねる」、「任せる」という意味も持っている。むしろそちらのほうがこの場面では正確かもしれない。受難物語における一連の出来事は「ゆだねる」物語なのだとも言えるからである。何にゆだねるのか。それは神の救いのドラマにゆだねるということ。イエスの受難の表の舞台では、ユダ、祭司長たち、そしてピラトと群衆が「裏切る(引き渡す)」ドラマを演じている。いや、演じさせられている。しかし、裏の舞台でも神の救いのドラマが進行している。「引き渡される」イエスが主役となって、もう一つの脚本、いわば神の救いの脚本に従って「神にゆだねる」ドラマが進んでいるのである。主イエスが父なる神にゆだねる、ドラマである。マルコ福音書では1436節のゲッセマネでのイエスの祈りに「神にゆだねる」姿勢が描かれている。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 金子みすゞの詩に「大漁」というのがある。「朝焼け小焼けだ/大漁だ/大羽鰮の/大漁だ。浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらい/するだろう。」

 このように、目に見える人間の営みは今も悲喜こもごも続いている。しかし、海の底では、見えないところでは、今も主イエスが十字架上で私たちのために血を流しておられるのである。今も、キリストは十字架につけられ、われわれの罪のあがないのために血を流しておられるのである。今も我に来よ、と私たちに呼びかけておられるのである。この神の救いのドラマをしっかりと目に焼きつけて、このレントの時を過ごしましょう。