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神の恵みによる救い

2022年3月13日 主日礼拝宣教

「神の恵みによる救い」ルカによる福音書18章18-30節

 今朝の聖書箇所に登場する「ある議員」さんは、支配層に属し、おまけに金持ち。主イエスから十戒の話をされると「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えるほどの模範的な信仰者だと自負している。

 そのような人が、なぜ主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねるのだろうか?私が思うには、どうも救われる、あるいは救われたという確信が持てないで、悩んでいたのではないだろうか?

この男は「何をすれば」と聞いている。この男の価値観は「できる、できない」で測られるもの。できれば救われる、できなければ救われない、という価値観からどうしても離れられないのだ。だから、できるという延長線にしか彼の未来は開けないのだ。できない、または負けた、という挫折感を経験したこともないようだ。だから、主イエスに「できないこと」をはじめて言われたので悲しくなったのだろう。「その人はこれを聞いて非常に悲しんだ」とある。ここで彼の価値観は立ち行かなくなった。

 このあと主イエスは、「らくだが……」(182425)と譬えて言われる。それは人間にはできないことだ、と言っているようなもの。だから人々が「それでは、誰が、救われるのか」と思うのは当然だ。そこで、主イエスは言われる。「人間にはできないことも、神にはができる」。この言葉は、「救いは神の業だ」、ということをはっきりと言われたものである。

 そのことをこの話がルカ福音書18章においてどのような文脈に置かれているのか、その直前と直後の話を見てみよう。今日の話の前では、戒めをきちんと守り、自分を神の前にふさわしい人間だと自任している「パリサイ人」と対置して、「徴税人」が登場する。さらに「乳飲み子」。今日の話の後では「物乞いの盲人」が置かれている。いずれも戒めを守りようのない者であり、人々から見下され、主イエスに近づこうとすると「叱られて」もいる。しかし、それらの一人ひとりを主イエスは受け入れ、神の国が彼らの上に臨んでいることを宣言されるのである。

 だとするならば、「戒めをすべて守っている」と語る金持ちの男に「欠けていたもの」とは、次のように言えるのではないだろうか。つまり「この世の財産を持ち、律法の戒めを守ることによって、神の国に入る資格が得られる」という彼の神の国理解が根底からひっくり返されたということ。そして、「貧しい者」にこそ神の国が宣言されていることを受け入れ、これまで「徴税人」や「乳飲み子」「物乞いの盲人」を見下してきた自分の価値観を砕かれ、彼らの仲間に飛び込んでいくこと。それこそがこの金持ちの男に「欠けていた」ことであり、そのような「価値観の全くの転換」(悔い改め)に導かれて、エルサレムへ向かう主イエスに従うように招かれたのだ。

 

 しかし、そうはいっても「自分のものを捨てて、あなたに従いました」と胸を張る弟子のペテロさえ、このあと主イエスに従いきれない自分を見出し、涙を流す(2262)。そのように神に従い、隣人を愛しきれない自分の限界を思い知らされる時、「人にはできないことも、神にはできる」(2627)の言葉がまさに私たちに向けて語られていることを覚えよう。ここで私たちに向けられているメッセージは、主への全幅の信頼をもって、祈り求めることが大事であるということである。