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主よ、憐れんでください

2022年3月6日 主日礼拝宣教

「主よ、憐れんでください」ルカによる福音書18章9-14節

 今日の聖書箇所で、主イエスは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189)、対照的な二人の祈りを語っている。ここで主イエスは二人の祈りを通して、何を教えようとされたのだろうか。それは「祈り」というものはそのままその人の「信仰の姿」を映し出すということを教えようとされたのではないだろうか。関係が人間を形成するように、神との関係がその人の信仰の姿を作り、その信仰の姿が祈りに現れる、というわけだ。さらに言うならば、神との関係が他者との関係にも現れるということである。さっそく対照的な二人の祈りを見てみよう。

 たとえの中の二人はあまりにも対照的である。一人は律法を忠実に守るユダヤ人のリーダーであるファリサイ派の人、もう一人は同じユダヤ人でありながら、ローマ帝国への税金を取り立てていたため、人々から嫌われていた徴税人。

 二人は祈りにおいても対照的である。ファリサイ派の人の祈りは喜びの祈りであり、その喜びを感謝する祈り。ただし、その喜びは人の低さを喜び、自分の高さを喜ぶという、「人と自分の比較」の中の喜びであり、感謝である。彼はこう祈っている。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」この他者を冷たく切り捨てる姿は、神の愛とはかけ離れた姿である。さらに彼は次のように祈りを続ける。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」彼は価値基準を自分の手の中に持っている。基準が自分にあるということは自分を神としていることに通じる。だから、彼の祈りは自分を賛美するだけの神無き祈りとなる。

 それに対する徴税人の祈りは、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」(1813)。確かに徴税人は罪人と呼ばれていた。そしてみんなから行為を非難される中で、彼もいつしか自らの行為を汚れたものとし、さらには自分で自分の存在さえ否定していた。「どうせ俺はバカだよ」とか「どうせ俺はダメ人間なんだ」などと言って、自己卑下したり、自己否定して、自己肯定感が持てない人間だったのである。だから、彼は「わたしの罪」ではなく「罪人のわたし」と、はっきり自分の存在を否定し、自分に対してとことん絶望していた。

 この二人の姿に「罪」の姿を見ることができる。ファリサイ派の人の罪は自分を基準()として他者を裁く罪。一方、徴税人の罪は自分で自分を裁く罪。自らを正しいとする人は他者を裁き、他者を傷つける。反対に、自らを否定する者は自分を裁き、自分を傷つける。他者を裁いて傷つけることも、自分を裁いて自らを傷つけることも私たちには許されていない。裁くことができるのは神だけである。

 しかし、「憐れんでください」と訴える祈りが、絶望の中にいる徴税人に希望を与える。「憐れむ」とは「同じように痛み苦しむ」ということを意味する。「神さま、あなただけは誰も分かってくれない私のこの心の痛み、分かってくれますよね、憐れんでくださいますよね」と祈る中で、彼は対話する相手、神の存在を確認するのである。祈る相手がいるということは孤独ではない。神は共におられるのである。そこに希望を得た徴税人は「義とされて家に帰った」(1814)と主イエスは言われる。「義とされる」とは神から「それでよいのだよ」と言われるということ。共におられる神は、決してその関係を閉ざされない。赦すために神はいつも私たちの祈りを待っておられるのである。

 さて、皆さんは、「憐れんでください」と祈ることがありますか。私は、たびたび「憐れみたまえ」「憐れんでください」と祈ることがある。その時の私は自分の無力さ弱さ限界を強く感じる時である。だから、そう祈らざるを得ないのだ。カトリック教会の礼拝で歌うミサ曲の最初は「キリエ・エレイソン」といって、「主よ、憐れんで下さい」という意味。その「キリエ・エレイソン」を繰り返し歌う、というか唱える。それは悔い改めの祈りでもあるのだ。

 

 主イエスはたとえの中で、徴税人を次のように語られている。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(1813)。ここには、ただただ憐れみによって生かされる罪人としての自覚がある。自分の罪に途方に暮れ、ただ赦しを乞うばかりの祈りがある。罪の中にある者は、神を仰ぎ見ることもできない。だから「目を天に上げ」ることができないのだ。そして「胸を打ちながら」の徹底した悔い改めと、だから神に憐れみを乞うしかない主への信頼がある。それが「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という大変短い祈りとなったのだ。 それこそが主イエスが求められる信仰なのである。