· 

友なき者の友イエス

2022年2月27日 主日礼拝宣教

「友なき者の友」ルカによる福音書19章1-10節

 朝日新聞(2022216)にたまたま「関係性」について二人の方の言葉が紹介されていた。作家・ドリアン助川氏「どんな人も他者や周囲の何かと関係を結んで初めて『自分』が成立する。」もう一人はミュージシャン・後藤正文氏「バンドを始めたころは、表現における一切合切が自分のなかだけにあって、音楽と孤独に向き合うことだけが、素晴らしい楽曲を作るための唯一の方法だと思っていた。しかし、やればやるほど、音楽は自分の内側には存在せず、むしろ他者との関係のなかにあると感じるようになった。」

 今日のザアカイの話は大変有名で、いろいろな切り口から説教されているが、今日は「他者との関係」、この場合は「イエスとの関係」だが、イエスとの関係が結ばれて、はじめて「救い」に与かり、解放されたという切り口で見てみたいと思う。

ザアカイは、「徴税人の頭」と「金持ち」というレッテルを貼られていた。どちらも、この男は強欲な者であることを表わしている。当時は、徴税人は不正なやり方で富を得、また、仕事上異邦人であるローマの当局者と接触するので汚れた者としてみられ、さらに自分たちを支配しているローマの手先のように思われて、誰からも忌み嫌われ、軽蔑されていた。本来ならば、「徴税人の頭」であるから、いうなれば組織の長、リーダーであり、「金持ち」なので、うらやましがられる存在であるはずなのにそうではない。ザアカイはさぞかし寂しさや孤独を感じていたのではないだろうか。

このザアカイが、町にイエスという男が来たことを知って、ぜひ一度会ってみたいと思ったので、イエスのところへ駆けつけてみたが、イエスはもう大勢の群衆に囲まれて、背の低かったザアカイは見ることができなかった。イエスを取り囲んでいた群衆は誰もザアカイのことなど気にも留めない。背が低いので群衆をかき分けて前に行きたいのだが、だれも入れてくれない。そこで、ザアカイは仕方なく、先回りして、いちじく桑の木に登って待ったのだった。

人だかりの中心にイエスはおられた。「ああこの人か」、そう思った時、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」、とイエスから言われた。どうして私の名前を?どうして初対面なのに、自分の家に泊まりたいなんて言うのだろう。そんなことをあれこれ考えるよりも彼は喜びのあまり、即座に木から降りてきて、イエスを迎えたのだった。

 イエス・キリストを迎えるという行為、言うなれば、イエスの愛の呼びかけに応答したということだ。ここに彼の新しい人生の一歩があった。もちろん、その前にイエスご自身が罪人呼ばわりされていたこの男を受け入れるという事柄がある。イエスが、はじめにザアカイの存在に目を止めておられたのである。そして、ザアカイの方もイエスの出会いを執拗に求めた。そのこと自体が、彼の悔い改めだったのだ。

 その時、ザアカイはイエスに言った。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」。財産の半分を貧しい者たちに施すというのは、彼の中に憐れみの心が生じたしるしだった。4倍にして返すというのも、律法では強盗をした場合に4倍か5倍の賠償額を支払うことになっていたので、自分の行為を強盗と同じと見ているザアカイの自己への厳しい反省の思いが感じられる。

 彼が悔い改めに至った契機は何だったのだろうか。それは、生活自体は何不自由なかったのだが、共同体からつまはじきされ、関係を断たれ、寂しさをいつも感じていた彼に、イエスは周囲が驚くほどの異なる対応をされたからだ。人々のいる面前で、彼の家に泊まろう、つまり、彼の友になる宣言をされたのだ。彼は、出会いを求めていたイエスから、受け入れられたのだ。このことが、彼の悔い改めのきっかけになった。罪の悔い改めにはイエス・キリストの愛が先行している。

 ザアカイの応答の後、イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われ、彼も救いの中に置かれている存在であることを伝えた。そして、このことは、「この人もアブラハムの子」と言われたことで、共同体からはじき出されていたザアカイが、その社会に復帰できる人間関係を取り戻す出来事にもなった。それまでザアカイは、神からは「失われていたもの」だった。神から離れて遠いところに行っていた。神に背いて歩んでいた。その彼が、イエスとの出会いによって、神のみもとに立ち返ったのである。

 

 そこには、まずイエスのザアカイに対する愛の呼びかけがあり、それに応答するザアカイ、悔い改めに導かれるザアカイがいた。私たちも主の呼びかけに応答するものとされて、神との関係、イエスとの関係の中に入れられたいと思う。