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礼拝から始まる生活

2022年2月13日 主日礼拝宣教

「礼拝から始まる生活」ローマの信徒への手紙12章1-8節

 皆さん、横須賀海軍カレーはご存知ですか。今では全国的に有名です。それは戦前の海軍で金曜日にはカレーライスを食べたことから始まる。今の海上自衛隊でも続けられているそうだ。ではなぜ、金曜日にカレーを食べるのかというと、航海に出て船の中で生活していると曜日感覚がなくなって、今日が何曜日だかわからなくなるので、金曜日にはカレーを食べさせて、ああ今日は金曜日かと確認させるためだったそうだ。金曜日はカレー、それと同じく、日曜は教会で礼拝。神様を忘れないように。

さて、私たちは日曜日を「主の日(主日)」と呼ぶ。その「主の日」は、もともと聖書では、歴史の終末の日のことだ。主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115)と宣教を始められた時から、すでに神の国が始まり、主イエスの復活の出来事において終末の日に起こるべきことが先取りされた。復活されたのは日曜日の朝早くの時だったので、「主の復活の日」(日曜日)はまさしく「終末の日」を覚える日でもある。日曜日に礼拝することによって、私たちは、この日に復活された主イエスを記念し、またこの主イエスが終末の時に再び来られるという約束を待ち望む、という日であるわけだ。

 ところで、「礼拝」という言葉、「拝む」という字が入っている。誰を、何を拝むのだろうか。それは主なる神を拝むのである。だから、自己崇拝者や拝金主義者は教会の礼拝に来ない。そして、私たちは「礼拝」と言う時、その後に、「捧げる」とか「守る」とかよく言う。「礼拝を捧げる」とか「礼拝を守る」などと言う。それは、御言葉により恵みを受けて、祈りと賛美と献金とを「捧げる」からである。別の言い方で言うと、お金と時間と労力を捧げると言ってもいいだろうし、自分の生活の一部を捧げると言ってもいいだろう。そして、「守る」というのは、神を第一とする生き方から引き離そうとする悪しき力(サタンの力)の中で礼拝を「守る」からである。次のような言い方がある。「礼拝を守るあなたが守られる」。的を得た、うまい言い方だと感心する。逆に言うと、礼拝から離れるとあなたは守られないということになる。礼拝が私を守る、のである。

また、礼拝に欠かせないことは、神に栄光を帰することである。つまり神に最高の価値をお返しすること。そして神への献身を新たにすること。さらに目に見えない世界()に根差し、見える世界()に派遣されることである。

ヨハネ福音書423節に、「霊と真理をもって父を礼拝する」とある。そのことによって、礼拝で生ける神の存在を実感し、主と出会うのである。私たちの生活は主の日の礼拝から始まるということが大切である。私たちの生活全体はその出発点において、神からの祝福された生活である。どんなに困った、つらい生活であっても、神は私たちと一緒に、このつらさを味わって下さるのである。それによって、私たちがこれ以上、困難の中にとどまるところがないように、である。また、生活の中で喜んでいたら、神も一緒に喜んで下さる。私たちがこの世の喜び以上のものを知るようにと、神はそうして下さるのである。

だから、私たちの生活は、「キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする」という点に、根本的な意味がある。パウロは、第一コリント5章の910節で、「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者……と全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」と言っている。ここにキリスト者の社会との関係が示されている。私たちは社会の中で、キリストを証しつつ、社会の問題と取り組み、奉仕するようにと、押し出されていくのである。私たちの生活は、礼拝において、神によって進むべく祝福されて、この世へと遣わされていくのである。

 

私たちは神によって遣わされるのである。教会から遣わされるのである。礼拝から遣わされるのである。その時、共に神がいてくださる。どこへ、誰のところへ?それは私たちの生活のただ中へ。現実の社会のただ中へ、である。特に、「わたしは失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする」(エゼキエル書3416)と言われたように、失われた者、追われた者、傷ついた者、弱った者のところへ、である。そこで私たちは共に生きるのである。それが福音宣教の働きである。それは礼拝から始まるドラマである。