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わたしは主である

2022年1月30日 主日礼拝宣教

「わたしは主である」レビ記19章1-12節

主なる神はイスラエルをエジプトから救出された後、シナイ山でモーセを通して律法を授けられた。その目的は、彼らをご自分の民とするためであった。そのために「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言を繰り返された。だから、この神と民との関係、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる喜びの言葉でもある。今日の説教題の「わたしは主である」という宣言も「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言である。

 しかし、神が「わたしの民」と呼ばれるには、あまりにもイスラエルの民の罪は根深く、汚れと背きに満ちていた。荒れ野での旅の中で、民の罪は次々と露呈されていく。聖書はそのことを隠さず書き留める。きれいごとではない。それは私たちに、汚れと背きに満ちた人間は、自分の努力によって聖なる者になるという考えを断念せざるを得ない、という事実に思い至らせる。しかし、「わたしはあなたたちの神となる」と言われた神は、その断絶の前でたたずむ方ではない。その断絶を打ち破って人々の生活の中に介入し、私たちに聖なる神の聖なる民として生きるよう求められる。それが律法である。

 律法の基本は、「神を愛し、隣人を愛せよ」である。その具体的な戒めが今日の箇所以下に書かれている。その戒めを命じるごとに、「わたしは主である」と繰り返し宣言される。それは、神はそのようにして私たちの生活の中にまで介入して、共に歩んでくださるお方なのだ、ということを示しているのではないか。「わたしはあなたたちの神になる」と言われる神の愛がそこに示されていることを覚えたいと思う。

 ヨハネの黙示録の21章に、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と書かれている。この箇所は、ヨハネが見た神の国の幻である。神の国においては、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のである。

 その終末の事柄が、今、この現実の世において、先取りのかたちで行われているのだ。恵みの先行である。神は、イスラエルの民たちに「あなたたちの神となる」と言われたのだ。例えば、誰かがあなたに向かって「あなたの友となる、友だちになろう」と言ったとしたら、それは一緒に遊ぼうとか、共に頑張ろう、ということを含んでいる。同じように「あなたたちの神となる」とは、「神が人と共に住み」「神が自ら人と共にいて」、あなたたちの神となることを意味する。共にである。神は遠くどこかにいて、宣言しているのではない。共に住んでおられるお方なのだ。そのことを思う時に、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる希望と喜びと励ましの言葉として響いてくるのではないか。

 

 イスラエルがかつて、十戒を与えられた時のことを見てみよう。モーセがシナイ山頂において十戒を与えられた時、主はまず「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト202)とご自身を宣言された。ここに、恵みの先取りが言われている。宣言する前に、命令する前に、いかに主なる神がイスラエルを愛し、憐れんでくださったか。その具体的な出来事として出エジプトというイスラエルのエジプトの国、奴隷の家からの解放の出来事があったのだ。出エジプトの出来事、さらに荒野での40年にわたる旅路をみるときに、まさに「神が人と共に住み」「神が自ら人と共におられ」なければ、なしえないことだったことが分かるだろう。いや、それは、今に至るまで続いている。それは、イエス・キリストと聖霊を私たちのために与えて下さったことによる。インマヌエルなる主イエスを私たちのためにこの地上に送ってくださって、今も聖霊なる神によって導かれ守られている私たちである。神の愛の永遠なることに感謝し、賛美しよう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ316)。