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祈りは信仰生活の生命線

2022年1月23日 主日礼拝宣教

「祈りは信仰生活の生命線」マタイによる福音書6513

 信仰生活について、いろいろな言い方ができる。私は勝手に次のように言っている。祈りは呼吸。血となり肉となる食べ物(霊の糧だが)は聖書の御言葉。そして実践は聖霊の導きによる。少し乱暴な言い方だがそのように譬えて信仰生活を送っている。

 さて、今日は生きていく上で最も大事な呼吸、祈りについて、御言葉から教えられたいと思う。キリスト教の中心は何と言っても祈りにあると言われている。私たちの信仰生活は、いつも祈りに始まり祈りに終わる。もちろん他宗教でも祈りをする。また神を信じない人でも「ご健康をお祈りします」など、手紙の最後に書いたりする。では、それらとキリスト教の祈りはどこが違うのだろうか。

それは困った時の神頼みで祈り、願い、拝んで、喉元過ぎれば熱さ忘れるで終わってしまうのとは違う。キリスト教の祈りは、生ける神に聴き、神と対話する。それを私は「呼吸」と譬えている。私たちの祈りはまず、自分から神に「主よ、神よ」と呼びかける。「呼吸」の「呼」である。そして、神の声なき声を聞く。「呼吸」の「吸」である。こちらからの一方的な祈りではないということ。神との対話である。神と共にあろうとする魂の不断の方向である。磁石がいつも北を向いている如く、いつも心が神に向き、心を開いていくのが祈りだろう。

それと主イエスの名によって祈るのが決定的な違いである。キリストの執り成しがあるから祈れるのだ。そうすると、自分の祈りが自分の祈りに終始せず、主イエスを通して神の祈りとなっていくのではないかと考えている。だから、必ずしも自分の願いが自分の思うようにならないことがあっても、そこにイエス・キリストを通して(執り成し)与えられる神の計画、神の配慮、神の愛があると考える。そのことを受け入れるのが私たちの信仰ではないだろうか。

 今朝の聖書箇所では、いわゆる「密室の祈り」ということが勧められている。6節に「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」とある。これは自分だけの心の秘密部屋を連想させる。この秘密部屋なら、誰にも言えないことをおもいっきり心を開いて神に祈ることができる。ダニエル書919にあるように「主よ、聞いて下さい。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください」と激しく迫り、思いをぶつけることができるのだ。 

 さらに今日の御言葉は、先ほど言ったことに関連して、祈りは他人に見せるために行うものではないことも言っている。イエスが生きていた時代、ユダヤ教徒の中には、自分がいかに神に対して忠実であるかを見せるために、街頭で大声で祈りを捧げている者がいた。イエスは、そのような他人に見せるための祈りは欺瞞であると断罪する。そして、この「主の祈り」を提示したのだ。

 その「主の祈り」では、主語は「わたしたち(我ら)」になっている。複数形である。従って、教会で共同で祈ることを前提とした祈りとも言える。共に祈るのだ。その「共に」が生命線。それは「共に生きる」ことにつながり、さらに「隣人を愛しなさい」につながるのではないだろうか。「わたしたち」に力点が置かれている。だから、主の祈りは、共同体的、礼拝的、終末的という三つの性格を持っていると言われている。現在もこの祈りは、カトリック教会、プロテスト教会、正教会の礼拝で必ず唱えられている。もっとも、教会以外の場所での祈りをキリスト者は行ってはいけないということではない。祈祷会で、家庭で、また個人での祈りをキリスト教は奨励している。

 さらに、「主の祈り」の内容に注視していくと、日々の食糧も心の平安もすべて神に頼るほかないという現実を自覚させられる。それは祈りによって、人間は自らの限界を知らされるということだろう。そして、イエス・キリストを通して神の愛を実感するのだ。それは、祈り続けることによって、状況よりも、祈る人自身が変えられていくからこそ、神の愛を実感として受け取ることができるようになるのだ。

 この聖書箇所で、主イエスは、「主の祈り」を教えられるにあたって、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と言われた。祈りはすでに聞かれているという意味がここにある。もしそうであるなら、もはや祈る必要はないではないかと訝しむことがあるかもしれない。しかし、主イエスは聞かれているからこそ、祈るのだと言われているのだ。キリスト者詩人の八木重吉は、「祈りの種は天に蒔かれ、さかさまに生え、地上に至りて実を結ぶ」と詠んだ。祈る時は、すでに祈った結果を手にしているという意味がここにある。

 しかし、私たちは注意しておかねばならない。先ほども述べたが、祈りが聞かれるとは、願い通りに祈りが聞かれることとは違う。真剣に祈っても、願ったとおりにならないこともあるだろう。結果が、意図しないことであったり、場合によっては願いとまったく逆のことであったかもしれない。けれども最も必要なものをご存知であると信じて祈った結果がそこにある。結果はどうであれ、私にとって最も必要なものが与えられる、それこそ信仰による祈りである。

 

 私の祈りが、願いが、主イエスの名によって祈ることで、私の祈りが神の祈りとなっていき、主イエスの執り成しによって、神の配慮、神の計画、神の愛がなされていくのである。そのことを感謝と信仰を持って受け取っていこう。