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使命・懸命・運命

2022年1月16日 主日礼拝宣教

「使命・懸命・運命」 マタイによる福音書62534

 この数か月の間に親しくしていた方々5名が天に召された。立て続けに召天された方々を思うにつけ、改めて生きるとは、死ぬとはということを考えた。『使命を生きるということ』(柏木哲夫・樋野興夫著 青海社 2012)という本に3人の方々の言葉が紹介してある。改めて読んで、その言葉からいろいろと考えたり、教えられたりした。少し長いが、引用して紹介したい。

最初は三浦綾子さん。「三浦綾子さんはかつてNHKのインタビュー番組で『使命っていうのは、命を使うと書きますよね』と話された。続けて、三浦さんは『私の使命は小説を書くことだとずっと思ってきました。体が弱ってから小説を1冊書き上げると、もうくたくたになるんです。あー、命を使ったなあって思うんです』と語られている。実感のこもったすごい言葉だと思う。『命を削る』とはこのようなことだと思わされた。」とある。皆さん「命を使った」などという実感を味わったことありますか。

 次は、瀬戸内海の小さな島の診療所でずっと診療を続けてこられた老医師の言葉。「最初はそれほど使命感に燃えていたわけではないけれど、困っている人の助けになるならと、島の診療所に奥さんと一緒に赴任した。初めは次の医師が見つかるまで1、2年いて、自分も都会に帰ろうと思っていた。ところが島の住民が素朴な、いい人たちで、医師がいなくなったらその人たちが困るだろうと、一人きりの診療所で『とにかく懸命に働いてきました』と言われる。『懸命』とは『命を懸ける』と書く。この老医師は命を懸けてきたとは意識しておられないふうであるが、確かにこの老医師は命を懸けてこられた。懸命に生きてこられた。」と紹介されている。さあ、私たちはどうでしょう。懸命に、命を懸けて、生きてるだろうか。

最後は、東日本大震災で夫も子どもも亡くされて、ひとり仮設住宅に暮らしている40代のクリスチャンの女性の言葉。「つらい体験を話された後、『これも私の運命だと思います』と言われた。その言い方は、決してネガティブではなく、起こったことすべてを受け止めた『運命』だと思わされたそうだ。『運命』とは『命を運ぶ』と書く。聖書の中に『神のなさることは、その時々にかなって美しい』という御言葉があるが、キリスト者は、すべてのことには、何らかの神の意思があり、意味があると考える。だから、どんなつらい状況でも、それが神によって命を運ばれたと受け止める信仰の強さというものをその女性の言葉から感じる」と書かれていた。

私はすぐ、ヨブ記121節の「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」の御言葉を思い出した。以上3人の方々の言葉から、あらためて主から与えられた命を十全に生きているだろうかと問われた次第である。

今日与えられた聖書箇所、マタイ福音書の625節以下に次のようにある。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」「思い悩むな」である。なぜ「思い悩むな」というのか。それは「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切」だから、まずその命、体のことを思い、大事にしろということだろう。でも、人間は、当たり前だが、食べること、着ることなくして生きていくことはできない。だから、自分が努力して食べ物と衣服などを含む生活のために必要とされるものを確保しなければならないと、無意識のうちに考えている。当然である。それは悪いことではない。

 しかし、このような発想には、重大な欠陥、落とし穴がある。それは、現在置かれている自分の状況に感謝するよりも、自分の力によって、よりよい食べ物、衣服などを確保するという欲望に支配される危険。食べ物や衣服は生きていくための手段であって、目的ではない。主イエスはここで、手段と目的が逆転してしまう危険を指摘しているのだ。よくあること、本末転倒。生活の糧を得るために仕事をしていたのだが、いつしか仕事のために生活や家族を犠牲にして、場合によっては健康さえも犠牲にして働いている。そのうち、自分は一体何のために忙しく苦労して働いているのだろうと疑問がわいてくる。もっと言うならば、何のために生きているのか、と考え込んでしまうだろう。目的と手段の逆転、いや、そもそも目的、人生を生きる目的が明確でなかったのではないだろうか。

 聖書は繰り返し私たちに言っている。人間の目的は、「永遠の命」を得て「神の国」に入ることであると。33節「何よりも、神の国と神の義を求めなさい」にある通り。この一点をぶれずに持ち続けることが大切だ。このために、現在、地上で生きている一人ひとりの人間に何が必要であるかということを、神はよくわかっておられる。先ほどのヨブ記のみ言葉にあるように、私たちの命と体は神によって与えられたもの。だからこそ、かけがいのない命であり体なのだ。その体と命を使って、使命に生き、懸命に生き、運命に生きているだろうか。

 

「まず神の国と神の義を求めよ」であり、そのことを生活の根幹に据えて、与えられた命を十全に精一杯生きているならば、34節「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」という御言葉も納得がいくだろう。使命に生き、懸命に生き、運命に生きる。神にゆだねて感謝と希望をもって生きていこう。