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人生の棚卸し

2022年1月9日 主日礼拝宣教

「人生の棚卸し」 詩編34編1-11節

試練の時こそ、自らの歩みを振り返るチャンスである。でも、そんなことを言っても実際は試練の時に余裕なんかない。だから振り返る気持ちにもなれない。途方に暮れる、恨む、嘆く、悲しむ、そして歩みが止まり、その場に立ち尽くす。だからあえて、逆説的に「ピンチはチャンス」ととらえてチャレンジすることをお勧めする。人は、順風満帆の時には自らを振り返ることをしない。イケイケどんどんである。ところが、逆風が吹いてくるとそうはいかなくなる。そういう時こそ、ちょっと立ち止まって、日常の生活や仕事を今一度吟味し、振り返ることは有効ではないだろうか。これを「人生の棚卸し」と私は勝手に言っている。その棚卸しには、物質的な側面と霊的(精神的)側面とがある。ムダはなかったか、ムリをしなかったか、将来に向けて備えをしているかなど、点検する必要がある。これらのことをしっかりと点検するならば、驚くほどに生活が整理され、簡素化されるはず。さらに、霊的(精神的)な点検もしてみよう。自分の心がどこにあったのか、天(神)に向いていたか地(世間)に向いていたか、お金や地位や名誉やメンツにこだわっていなかったか、日々聖書を読み、祈ることを習慣としていたかなど、点検してみるといいだろう。

コロナ禍で、多くのアーティストたちが、仕事がまったくなくなり(彼らにとっては大きな試練)、外出自粛でおうち時間が増えたりして、家中を片付けたとか、今までの仕事を見直してみたとかという話をよく聞く。これも人生の棚卸しの一つだろう。片づけをしながら、今までの生活や仕事、人間関係などを見直したことだろう。

 また、試練の時は、感謝することを忘れがちである。感謝は、感情から自然に生まれるものもあるが、多くは意志によって選び取るものである。すべてがうまくいっている時には、だれでも感謝の思いがわいてくる。しかし、真の感謝とはいかなる時にも意志をもって選び取る行為なのである。今朝の聖書箇所で、ダビデは、「どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」(詩編341)と告白をしている。この時のダビデの状況をこの詩編の前書きはこう解説している。「ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」と書かれている。この背景は、サムエル記上18章から21章にかけて書かれているが、ダビデは自分の人生を呪ってもおかしくないような状況の中で、神をほめたたえることを選び取っている。

 使徒パウロも、次のように勧めている。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(第一テサロニケ51618)。喜ぶこと、祈ること、感謝することは、すべて意志の力によってなすものである。感謝することをどんな小さなことでも些細なことでもいいので、一つ一つ取り上げていくと、無尽蔵の恵みが湧き出してくる。そして最後には、生かされていること自体が、どれほどの恵みであるかに目が開かれるだろう。何でもないように生きていること自体が奇跡にも思える。神は私のような者を生かし、愛していてくださる。なんと有り難いことか。こういう心境になれたなら、自分を取り巻く状況が今までとは違ったものに見え始めるはず。

 

 今まで話したように、試練の時こそ、自分を振り返り、すべてに感謝し、新しい道を求める時である。ヘブル書の1211節に「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」とある。また、ロマ書534節には、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」とパウロは書いている。苦難は苦難で終わらないということ。時に人生の棚卸しをし、いつも感謝を持って歩もう。必ず平和に満ちた実を主は結ばせてくださる。神の約束。