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キリストに根ざす

2022年1月2日 新年礼拝宣教

「キリストに根ざす」 コロサイの信徒への手紙2章6-7節

 コロサイの信徒への手紙は、パウロがコロサイの教会の伝道の困難に直面していることを聞いて書かれたものと言われている。コロサイは現在のトルコ西部の町で、東西交通の要衝にあたり、異教的な影響の強い土地だった。だからコロサイの教会にはそれこそ様々な人種・階級の人たちがいた。ギリシア人に、ユダヤ人、奴隷もいれば自由な身分の者もいるといった状態だった(311)。その上、グノーシスと称される異端まで教会の中に入り込んで、混乱を起こしていたらしい(28)。そのような状況に対して、パウロは福音の真理とは何かを正面から明らかにしようとしているのだ。そのキーワードが「御子はその体である教会の頭」(118)であり、「キリストの体である教会」だった。

パウロにとって、「教会はキリストの体」は大前提。しかしながらコロサイの教会は種々雑多な人々の集まりで、中にはキリストの体にしっかりと結びついていない者も多くいた(219)。だからキリストの体にしっかり結びつくようにと、いろいろと言葉を変えて、諭し、勧め、励ましている。今日の聖書箇所の6節の「キリストに結ばれ」とか「キリストに根を下ろし」がそれである。コロサイの教会のようなことは、異教の地にあり、小さな群れである日本の教会やクリスチャンでも起こり得ることである。サタンは巧妙にやってくる。今一度、信仰生活のあり方、キリストに堅く結びついた生活の有り様について今日与えられたみ言葉から考え、整えられていきたいと思う。

信仰生活というものは、一度主イエス・キリストを受け入れたら、それでもういいのではない。バプテスマを受けたから、もう天国に行けるというわけでもない。むしろ、信仰生活のスタートである。それから成長していかなければならない。その時、キリストに堅く結びついた歩みが大切である。それは具体的に「キリストの体である教会」に堅く結びついた信仰である。「歩み」とは「生活」のことであるから、キリストに堅く結びついた信仰生活が、私たちを天の父なる神にいたらせる道である。

 キリストにある生活とは、「キリストに根を下ろした」生活である。キリストの大地に深く根をはり、キリストから霊的栄養分である命と力を受け取ることである。そうすることによって「あらゆる善い業を行って実を結ぶ」(110)ことが出来る。種蒔きのたとえにある通り。道端、石の上、茨の中にまかれた種は、いずれも根を深く張ることが出来ずに実を結ぶことができなかった。

 また私たちは、キリストにあって「造り上げられる」(7節)必要がある。キリストという土台の上にしっかりと建て上げるのだ。基礎はキリストである。これもマタイ福音書724節以下にある、岩の上に家を建てるたとえにある通り。岩の上に建てられた家は、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れな」い(マタイ725)。さらに「教えられたとおりの信仰をしっかり守る」(7節)必要がある。「しっかり守る」とは信仰を深め強化していくことである。

 そのためにはしっかりと深く、そして静かに神からの呼びかけを聞くことである。そのことは静的で受け身であり派手さはないが、そのことを主体的に、自覚的に、能動的に行うことが大切である。言われたからとか、みんながやっているからではなく、毎日の生活の中で、祈りとみ言葉の傾聴と黙想を主体的に、自覚的に、能動的に行うことが大事である。

 生き生きとした信仰生活を送るためにはこの主体的、自覚的、能動的な祈りとみ言葉の傾聴と黙想が極めて大事。そこから始まる。それと正比例して生き生きとした信仰の歩みがあり、信仰の確立があり、感謝が湧き出てくる。だから「あふれるばかりに感謝しなさい」(7節)と勧められている。一日のうち5分でも10分でもいい。できたら同じ時間で行い習慣化しよう。一日一章、そして短く祈る。そこから始めよう。今までの経験から言うと朝がいい。

 キリストにしっかりと根ざし、そしてキリストからしっかりと生命と力の栄養をいただこう。そのことによって、一人ひとりが成長させられ、やがてその一人ひとりが肢体である教会が成長させられていく。私たちの救い主イエス・キリストによって、それはなされていく。それは神の約束である。

 今年度の標語は「キリストに向かって成長しよう」。聖句は「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(コロサイ27)。どこに向かっていくかは極めて大事。目標である。その目標に達成するには、キリストに根を張って、命の源である、生きる力をキリストからいただかなくてはならない。キリストに根ざして成長していこう。私たち自身も教会も。