· 

賛美に生きる

2021年12月24日 イブ礼拝

「賛美に生きる」 ルカによる福音書1章46-56節

 讃美について次のような言葉がある。「ああ、主の民の最大の罪とは、讃美の不毛である。まことに一行の讃美は一葉の祈りにも値し、一時間の讃美は一日の断食、悲嘆にも劣らぬ価値があるという事を、どんなにか私は心から信じさせられている」。賛美の素晴らしさを言っている。

 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白でもある。今日の聖書箇所は「マリアの賛歌」と言われているところである。マリアは「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいました」(49)と主を賛美している。その「偉大なこと」は実は複数形。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない(129)。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたいものだ。また、主の恵みはすでに起こったものもあるが、これから起こるものもある。私たちはこれからのことについても確信して、讃美をもって応答していきたいものだ。

 このマリアの賛歌の冒頭に「わたしの魂は主をあがめ」とあるが、「あがめ」の「崇める」は、大きくするという意味を含んでいる。続けて読んでいくと、「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(47-48節)とある。その中の「目を留めてくださった」は、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」と訳されている。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。そこに思いがけない喜びを感じたのだ。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるものである。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みに値するものは何もなかったのである。しかし、そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのである。

 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言っている。そのマリアに神は「目を留めてくださった」のだ。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみだ。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。しかし、よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見るだろう。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えないのだ。マリアは、我が身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだ。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているのだ。それこそ生の信仰告白ということが言えるだろう。

 今見て来たように、クリスマスとは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美する時でもある。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。