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希望を持って待つ信仰

2021年12月26日 主日礼拝宣教

「希望を持って待つ信仰」 ルカによる福音書2章22-38節

 最近、政治家などは何かというと「スピード感を持って」と発言する。確かにこれだけ社会の変化が速いと、政治家もそう言わざるを得ないのだろう。しかし、私など高齢者はついていけない。ことにIT(情報技術)などが発達すればするほど、「待つ」ということが難しくなってきている。若い人たちのスマホでのメールなどの返信などはそのよい例。即答が4割、十分以内では7割という。

 これは若い人たちだけの問題ではなく、仕事そのものが「速く、速く」という時代だから、じっくり考えたり、待ったりすることが難しくなってきているのは確かだ。それによって、いわゆる「キレる人」が多くなっているのも、こうした時代と決して無関係ではないと思う。

 こんなことを考えていると、なぜかその対極にあるような聖書の世界に生きた人々に私の心は引き寄せられるのだ。旧約時代の預言者をはじめ、救い主キリストの来臨を待ち望んでいた人々に、である。中でもキリストの降誕物語に登場するシメオンとアンナは、「待つこと」について、私の目を開き、新たな洞察へと導いてくれた人たちである。

 話はイエスが誕生して40日が過ぎ、両親が「幼子を主にささげる」(キリスト教では献児式という)ためにエルサレムの神殿に上った時のこと。二人の老人が幼子イエスとその両親(ヨセフとマリア)を出迎えた。その一人がシメオン。ルカの福音書によれば、彼は「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」(225)とある。何百年も前に預言者たちが預言した救い主(罪から救う者)の到来を待ち望んでいたのだ。

 彼は幼子イエスを抱いて神をほめたたえ、「主よ、今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と言っている。これは、長い間待っていた救い主が誕生したのだから、もういつ死んでもいいという意味だろう。

 この時、もう一人、アンナという女預言者が登場する。彼女は7年間の結婚生活の後、夫と死に別れ、このときは84歳にもなっていたが、日夜祈りをもって神に仕え、救い主の到来を待ち望んでいた。

 ところで、このような気の遠くなるような「待ちかた」をしている人々の話を聞くと、この種の待ちかたというのは、どういうものなのだろうかと考えてしまう。歴史を通して、時間を超えて待つというような「待ちかた」は、ユダヤ人特有なものなのだろうか。私たちの生活経験の中ではイメージしにくいものだ。私たちが持っている「待つ」という概念とは何か大きな隔たりを感じる。

 しかし、この問題の考察を深めていくと、シメオンやアンナ、また救い主の到来を待った人々は、待つことの本質を告げているようにも思えるのだ。それは電車が来るのを今か今かと待つような、あるいはまた誰かと待ち合わせて、ときにイライラして待つような待ちかたではない種類のものだ。つまり自己中心的な願望に支配され、待ちくたびれてしまうことのないもの。人間が持っている時間ではなく、神の時間として待っているということ。コヘレトの言葉3章にある「何事にも時がある」という「神の時」を待つということだ。

 シメオンやアンナに見られる待つ世界は、自分の「願望」が中心ではなく、相手(神)を信じ、「希望」を持って待つというものである。神の時間に生き、待つ。信仰を持って待つ。聖書はこれを「待ち望む」と記している。ある人が「希望とは、いまだ答えのない問いを答えのないままにしようとすることであり、まだわからない将来をわからないままにしておくことです。希望は……神の導きの手を見させてくれます」と言っているが、待ち望むということは、今答えや将来が見えなくても待つことを可能にするものである。それは「信じる」ことを土台にしているからである。

 希望を持って待つことの難しい時代の中で、神の導きの手を信じ、待つことのできる者でありたいと、自らを振り返りつつ思う。