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正しい人ほど苦しい

2021年12月12日 アドベント第3主日礼拝宣教

「正しい人ほど苦しい」 ルカによる福音書1章5-25節

 イエス・キリストの誕生とは、旧約聖書の預言が成就された神の出来事である。神の出来事とは、神が私たち人間の世界に働きかけられたことを指す。神の業、神の働きのことである。そのことは、このザカリアの記事でも示されている。

ザカリアが祭司の努めで香をたいているとき、「主の天使」が現れる。私たちは神に仕え、神に献げ物をしたり、香をたいて神の喜ばれるようなことをするのが宗教であると思いやすい。しかし、ここでは神がザカリアに天使を送ってこられる。神のために人間が何かしていくと思っていたのに、神の方から近づいてこられるのである。聖書が私たちに訴えている出来事とはそういうことである。そこに他の宗教とキリスト教の違いを見ることができるだろう。どのようにして神を喜ばせていくかということではなく、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目を留めていくのがキリスト教である。常に主体は神であると言ったらいいだろうか。

 さて、アビヤ組の祭司ザカリアとその妻エリサベトは、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(6節)と紹介されている。旧約の信仰では、正しい人は神から祝福を受けると考えられていた。例えば、子孫繁栄とか、事業が成功するとか、豊作であるとか、そういうことを神の祝福のしるしと考えていた。「ところが」神の前に正しい行いをしていたザカリアたちには、子どもがなかったのだ。それは理解できないことであった。「どうして」と彼らも周りの者たちも思ったことであろう。

 ザカリアは、主の天使のお告げに対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と絶望的な気持ちをぶつけている。一方、エリサベトも「人々の間から私の恥を取り去って」(25節)と言っていることからもわかるように、「恥」だと受け取っていた。彼らは、自分たちは神からの祝福に与かれず、呪われたように思っていて、それを恥だとか、絶望の気持ちでいたことが分かる。なぜそのように苦しんだのだろうか。それは彼らが正しい人たちであったからである。

 神の前に正しく歩む者は、常にこの「ところが」を味わうのである。神の前に正しく歩んできた「ところが」、それにふさわしい現実がやってこない。それに対して私たちは「どうして」と思う。神に対してもそれを言うことがある。「どうしてそんなことが、私にわかるでしょうか」(118口語訳)、「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」(134)。それは神を自分の秤で計ろうとしていることになる。私が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。そうではなく、私たちの信仰のありようは、「にもかかわれず」私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにある。神の恵みを数えることである。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」(125)、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めて下さった」(148)という信仰である。

 私たちが神を信じるのは、自分の人間性を磨くことになるし、また人生の問題で悩んだり、苦しんだりした時には、どうしても助けや慰めがいるからだと言う人がいるが、キリスト信仰とはそのようなものではない。「苦しい時の神頼み」ではない。仮にそういうことが動機であっても、やがて、神はこの私を心に掛けて下さっていたことに気づくところから、本当のキリスト信仰が始まる。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」。これが信仰である。今別に信仰する必要がないとか、そのうち教会へ行きますからとか言う人がよくあるが、それは信仰がよく分かっていないのであって、キリスト信仰は、自分が必要だから信じたのではない。神が私たちの方へ臨んでこられたから、信じるようになったのである。神が私のような者を心に掛けてくださった、そのことが私たちの信仰の始まりであることをいつもはっきりさせておかねばならない。そしてそのことの応答として「決断」があり、感謝があり、賛美があり、行動があるのだ。

 もう一つ、ここで教えられたことは、ザカリアの沈黙である。ザカリアは天使から、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(20節)と言われて、「口が利けなくな」る。人は話せなくなると、その言葉はどこに向かっていくだろうか。自分に向かってくるのだ。そうすると、それは自分を見つめ直す時となる。そして、やがて、その心は神に向かっていくことだろう。神が何を私になしてくださったかに気づかされていくのである。ザカリアにはその時が必要だったということだ。私たちは時に沈黙が必要であることを教えられる。「黙祷」「黙想」という言葉がある。黙して自分に向かい、神に向かって祈ることの大事さを教えられる。このアドベントの時、静かに黙して祈りつつ主のご降誕を待つ、主の出来事を待つ。そのようにして過ごしたいと願う。