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教会はキリストの体

2021年12月5日 アドベント第2主日礼拝宣教

 「教会はキリストの体」コリントの信徒への手紙12章12-26節

 教会はキリストの体と言われている。これはパウロの教会理解の根本的命題。ここでは二つのことが強調されている。一つは、教会のメンバーの多様性であり、他の一つは相互に依存していることだ。

 まず、教会は一つの霊によって異なった社会的身分の者たちが「一つの体となるために」バプテスマを受けたことが語られている(13)。何かあらかじめ所有している性質とか背景があって一つになっているのではなく、共に同じ一つの霊に与かることによって一つの体にされている、ということが大前提になっている。私たちの共通点は「一つの霊によって」バプテスマを受け、キリストの体と一つにされたことである。

 だから、体は多くの部分(メンバー)から成り立っているけれども体は一つであると言い、そのことが直ちに教会に当てはまることを「キリストの場合も同様である」(12)と言ってパウロは確認をしている。

 1420節では足、手、耳、目などの例をあげて、体の部分の多様性とその尊さを語っている。18節で「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」と言い、多様性は神のご計画であると語っている。しかし、現実には教会のメンバーの多様性を神の祝福として受け止めるのは、それほど簡単なことではない。私たち人間は本能というか、罪と言っていいか、似た者同士、同質な者で仲良くなったり、グループを作ったりする。その方が居心地がいいからだろう。それだけなら罪は軽いのだが、それは同時に異質な者を排除しているという結果を伴う。さらに始末が悪いのは、そのように結果的に異質な者を排除しているということさえ気づかない鈍感さである。だから、そこに、13章の愛の尊さが言われなければならない理由があるのだろうと思う。

 2126節では、多様性の中に相互に助け合うことの必要性と一致が語られ、特に「弱く見える部分が、かえって必要なのです」と強調されている。このことは、言葉としては分かる気がするが、実際に教会に中に弱い人(たとえば病人、障碍者)がいて、いつも他の人に助けられなければ生きてゆけないとき、教会は苦労を経験させられる。しかし、その苦労を通して、愚かで高慢な私たちは、その人が教会に存在してくれることがどれほど教会の祝福になるかをあとになって学ぶのではないだろうか。教会に車いすの方が一人でもメンバーになれば、教会は変わる、そして祝福を受ける。そのような事例を多く聞く。

 26節で、その点をパウロは語っている。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共によろこぶのです」。これが共に生きる教会の姿である。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ1215)に通ずることでもある。これは単なる現実というよりも、課題として主から期待されている教会の姿である。これを現実とするために霊の賜物が与えられている。

 

 教会はキリストの体。その体は多くの部分からなっているが、一つの霊、一つの体を形づくっている。部分はそれぞれ違う、その多様性を認め、互いに助け合う。特に弱い部分が必要。互いに必要としている。そのような教会を目指して励みたい。