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沈黙の愛

2021年11月28日 主日礼拝宣教

「沈黙の愛」 ヨハネによる福音書8章1~11節

 聖書に限ったことではないが、物語を読むとき、どのくらい登場人物の立場に身を置いて読めるかということがとても大切。その感情や気持ちを拾うことが肝要だ。ヨハネの福音書8章にある「姦通の女」の物語はそういう読み方が必要な話の一つだろう。

 出来事は、主イエスが早朝エルサレムの神殿で、集まってきた民衆に教え始められた時に起こった。律法学者やパリサイ派の一群が姦通の現行犯で捕らえた女を主イエスの前に突き出し、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問い詰めたのだ。律法違反で死罪だというのだ。

 といっても、この質問は女の裁判を求めたのではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るために」であって、「赦せ」と言えばユダヤ教の律法違反だとして訴え、逆に「殺せ」と言えば、おまえの説く神の愛と矛盾するではないかと追い詰めることができるのだ。また当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人は死刑執行権がないから、処刑を承認するなら、ローマ帝国への反逆者として告発することもできるわけだ。要するに彼らは、律法の適用をめぐって教えを請うたのではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るため」に女を利用しただけなのだ。

 このような場に突き出された女の気持ちは、どんなものだっただろうか。簡単にその心の内を想像することはできないが、耐え難い苦痛であったと思われる。断罪されるだけなら、恐ろしくはあっても当然の報いとして受け取ることもできるだろう。しかし、それを公衆の面前で利用されるとなると、つらさは増幅されるのではないだろうか。そしてこの恐怖と屈辱に加え、あられもない姿を男たちの目にさらされる恥辱には計り知れないものがあったに違いない。ここに人間の恐ろしさがある。何の哀れみもかけず、さらし者にして利用しようとする、人間はそういう心にもなってしまうということなのだ。

主イエスは、「ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問い続ける律法学者たちの前で、目も合わせず指で地面に何かを書いておられた。主イエスの沈黙が続く。この沈黙は問い詰める律法学者たちに向けられたものだと思われる。主イエスは彼らを憐れみ、そして悲しくなったのではないだろうか。やがて身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と返された。律法学者たちやパリサイ派の人々は、「罪を犯したことのない者が」と言われて、自信を持って「ない」とは言えず、年長者から始めて、一人また一人と立ち去った。彼らは隠れてしてきたこと、秘密にしてあることなどを思い起こしたのだろうか、良心が痛んで立ち去ったのだ。彼らは主イエスの沈黙の後で発せられた言葉によって、自分自身と向き合わせられ、自分の罪を自覚させられたに違いない。

 ところで、姦通の女は、皆が去った後のつかの間の静寂に何を感じ取ったのだろうか。これこそ、恐れと恥辱に震える彼女の立場に身を置いて考えてみなくては分からないことだが、それを思い巡らしていくと、その静かな沈黙の中に主イエスの温かさが感じられてならない。私はこれを「沈黙の愛」と呼びたい。 

 彼女はこの愛に触れ再生に向かったのではないだろうか。ポール・トゥルニエが言うように、人が「自分の過ちを認めるにいたるとするならば」、それは「彼・彼女を裁いたことのないだれかとの、打ち解けた雰囲気の中で生じてくること」(『罪意識の構造』)なのだ。彼女は沈黙のうちに視線をそらしてくれた主イエスとの温かな関係の中で、真の自分の姿を見ることができたのではないか。自分の罪と向き合うことができたのだ。

 人々が立ち去った後、主イエスが彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と言われると、彼女は「だれもいません」と。これに対して主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われた。ここに主イエスの愛と配慮を感じる。恐れと恥辱の中に突き出され、やがて静かな沈黙の中で赦しの愛に触れた彼女は、どんなに平安を得たことだろう。