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隣人愛とは

2021年11月21日 主日礼拝宣教

「隣人愛とは」 ローマの信徒への手紙13章8~10節

 キリスト者の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方と言えるだろう。

 今日はその愛について考えてみたいと思う。パウロは「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ1310)と言い、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調した。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。だから、パウロはここで、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(ローマ139)などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。しかし「愛する」ことは義務ではない。義務だと責任が伴い、その責任が問われる。「だれに対しても借りがあってはなりません」とは、義務ではないから責任を問われないという意味に解釈できる。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係をつくり上げる。もし義務で他者を愛するなら、血の通わない、冷たい人間関係が残るだけであろう。

 キリスト教の愛について語る場合、様々な立場から、あるいは切り口から見ていくことができるが、今日は、他者性という切り口から考えてみたいと思う。冒頭に愛とは他者に対するあり方であると言った。「愛」は「愛」という名詞だけでは存在しない。「愛する」という動詞となって、行為となって初めて存在するものである。そして、「愛する」となると必ず愛する対象が必要。それが他者である。

 

その他者との関係だが、先ほどは肯定的に前向きに考えた時のことを話した。さらに義務ではなく自発的なものであるとも言った。ここでさらにもう一つのことを付け加えたいと思う。それは、9節にある「隣人を自分のように愛しなさい」の「自分のように」である。マタイ福音書には「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マタイ2239)とあるが、同じ意味内容である。主イエスが具体的に、「自分を愛するように」と説いていることがポイントだ。キリスト教は自己愛を重視する。裏返して言うならば、自分を愛することができない人は、隣人を愛することもできない。自分を愛することができないのは、自己肯定感が持てないからだと言われている。そういう人は小さい時から愛されたことが少なく、褒められたり、認められたり、抱きしめられたりして愛されたことの経験が少ない人に比較的多いと言われている。愛された経験がないから、愛が分からない、愛し方が分からないとでも言ったらいいだろうか。愛の負の連鎖である。その負の連鎖を断ち切るにはどうしたらいいだろうか。それは神さまが自分を愛していて下さると気づくこと、受け入れることから始まる。神の愛は無条件で一方的で、永遠。昔も今もそしてこれからも変わらず神は私たちを愛し続けられている。その神の愛をいっぱい受けることによって、隣人を愛するものへと変えられていくのである。そして神の愛の恵みの分かち合いに励みましょう。