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同じいのちを生きる

2021年11月14日 召天者記念礼拝宣教

「同じいのちを生きる」 

ヨハネによる福音書11章25節、ヨハネ黙示録7章9-12

 召天者記念礼拝は、先に召された人々をしのびつつ、残された者たちを慰めるものではあるが、それだけではない。召された者を記念することは、キリストにあって意味づけられ、「主にあって共に生き、共に主を証しする」ことが明らかにされるのである。

 黙示録79節以下は、天においても主の前で礼拝している様子が描かれている。信仰によって義人とされた者は、白い衣を着て、天の国に入ったしるしとしてナツメヤシの枝を手に持ち、神と小羊の前で賛美の声を上げている。かつて主イエスを十字架の死へと追いやった群衆が今や、生け贄の小羊であるキリストによって救われ、義人となり、小羊なる方を礼拝している。

 礼拝を守らないキリスト教会はない。礼拝こそが最高の信仰の献げ物である。天国においては、この礼拝が最も完成された形で守られている。肉において生きている間は、祈りに雑念が入り、御言葉を聞くにあたって居眠りも珍しくない。けれども、天上の礼拝は、「昼も夜も」神に仕えるのであり、小羊なるお方が牧者となってくださるのだ(715以下)。天国へ迎え入れられた時、信仰者は、その礼拝に参加することが約束されている。

 そのような天において捧げられている礼拝は、同じ信仰に生きる者によって捧げられているこの地上での礼拝と連続している。今、「同じ信仰に生きる」と言ったが、それは私たちには永遠の命が約束され、この地においても、天においても同じいのちを生きるということにほかならないからだ。

 ヨハネ福音書1125節で「私は復活であり、命である」という主イエスの御言葉が語られている。それは主イエスが愛された家族、マルタとマリアの兄弟ラザロが亡くなり、主イエスがその家にお出でになった時のこと。「あなたの兄弟は復活する」と主イエスが言われたのに対して、マルタは当時の人々の言うままに、あまり考えもしないで、「終わりの日に復活することは、存じています」と答えたのだった。その答えに対して、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのだ。これは強烈な言葉である。死んだ者も生きている者も皆同じ命を生きていると言っているのだ。その命とはキリストの命。これは霊魂不滅とか、不死の賜物といったことではない。

 キリストの命を生きるとは、キリストと取り換えっこした命を生きているということにほかならない。しかも生きていて、今その命を生きており、死んでもその命を生きる、それが信仰者の復活の意味であることを強い響きのうちに私たちは聞くのだ。永遠の命とはそのことである。私の命のことではない。キリストによって生かされている命である。

 キリストによって生かされる命に生きるとはどういうことだろうか。それは、御言葉に生きるということである。ヨハネ福音書524節で、主イエスの言われた、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」ということである。また、詩編119105節には、「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」とある。ある牧師曰く、「御言葉が照らすのは、今踏み出す足元だけでよい。一歩一歩を御言葉の光の中に踏み出す。そして生涯を振り返る時、その曲がり角であったところに、まるで自分が歩んだ旅路の里程標のように御言葉が輝いていることを感謝をもって思い起こすだろう」。

 

 聖書を開くと、ここでもあそこでも立ち止まって、この御言葉によって足元を照らしていただいた思い出が浮かび上がってくるだろう。そうであればこそ、これからも、同じように足元を照らす御言葉が与えられることは確かである。それは同じいのちを生きるということにつながっているのである。