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神は善、恵み深い

2021年11月7日 主日礼拝宣教

「神は善、恵み深い」 詩編100編1-5節 

詩編100編は、神が善であることを信仰告白的に強調している。5節に「主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」とあるが、「恵み深い」は「トーブ」というヘブライ語の訳。このトーブの本来の意味は「良い」「善](good)。だから、ここは「神は良い、あるいは善である」と訳してもよいと思う。そして、この5節には、神の善に対する信頼と確信がみなぎっている。「とこしえに」あるいは「代々に及ぶ」という言葉がそれを示している。

実は、この詩編は、その昔、人々が神殿に行列を作って、歌を歌いながら進んで行った、そのことがモチーフ(動機、題材)になっている。2節、4節を見ると、「賛美せよ、感謝せよ」と繰り返し呼びかけられているが、行列を組んで進む人々は、日常生活において全てがうまくいっていたわけではないだろう。中には仕事がうまくいってない人もいただろう。経済的に苦しい人もいたであろう。病気や健康のことで大きな不安を抱えていた人もいたことだろう。それは現代の我々も同じではないだろうか。すべてがうまくいっている人などいない。みんななにがしかの厳しい現実に直面して生きている。しかし、詩編は、日常的にうまくいってない人に向かって、「にもかかわらず」、「賛美せよ」「感謝せよ」と言っている。

ではなぜ、にもかかわらず、賛美せよ、感謝せよと言っているのだろうか。それは、命の根源に目を向けるようにとの呼びかけではないか。詩編100篇は、一人ひとりは意識しようとしまいと、命は神に切り離しがたく結びついている。だから、その命の根っこのところに目を向けて、神に「感謝せよ、賛美せよ」と言っているのである。

それは3節を読むとよくわかる。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」とある。「主はわたしたちを造られた。」これは神の創造行為と関係した言葉。「その民/主に養われる羊の群れ。」、これは命の保持としての救いと関係する言葉。神の創造と救いのテーマは聖書全体を貫くメッセージであり、信仰の内容である。聖書の神は命を創造し、その命を愛をもって養われ、導かれる神である。これが聖書のメッセージ。そして、この聖書のメッセージである創造と救いには「善」ということが深く関係しているのである。

たとえば、聖書の創造論が語られるもっとも有名な箇所は、創世記の1章だが、創世記1章で「良い、善」を意味する「トーブ」という言葉が7回も使われている。そこでは創造した天地万物を神が良いもの、善として肯定されたことが語られている。もちろん私たち人間も。私たちの命には神の善が、神の「良し」という宣言が宿っているということである。この創世記の記者の置かれている状況は人の命を良しとしない、命が軽んじられ、希望のない現実が背景となっていたはずだ。にもかかわらず、神の善に言及が及んでいる。

救いということでは、この詩編100篇は、羊飼いが羊を導くように養い、導くことの中に神の救いを見ている。それは、神の奇跡的な救いではなく、人の日常的な営みの中での神による命の持続的保持、維持、支えに神の救いを見ているということである。

神を羊飼いとする比喩で有名な詩編23篇がある。1節「主は羊飼い、わたしには何も書けることがない。」に始まり、6節に「命のある限り/恵み(トーブ)と慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」とある。この詩編23篇は、神を、良い、善なる羊飼いとして印象深く歌い上げている。この詩編23篇の作者の置かれている現実は、政治的に休まらない現実だったと想像できる。そのような中で、どこそこの王ではなく、主なる神こそが自分の魂の本当の養い手であり、導き手であると主なる神に対する信頼をきっぱりと歌い上げて信仰告白している。

 

命の尊さが軽視されることの多いこの世界にあって、神が善であることは、命ある者にとって揺るがない基盤である。その上にすべての望みと信仰が基礎づけられていく。これからの人生、いろいろなゆさぶりや困難なこと、悲しいことがあるかもしれない。しかし、その中にあって、善である主なる神に信頼し、祈りを通して主なる神に心を開いて交わり、霊の力を与えられて、感謝と賛美のうちに歩んでいきたいと思う。