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神の痛みの十字架

2021年10月17日 主日礼拝宣教

「神の痛みの十字架」 創世記8章20-22節

 創世記8章は、ノアの箱舟が洪水の中、水の上を漂っていたのだが、雨が降りやみ、水が減り始めていき、そしてとうとう地の表は乾いて、神がノアに箱舟から出るように告げられる場面が描かれている。

さて、箱舟から出たノアはどうしただろうか。「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上に捧げた」(820)。ノアが舟を出て最初にしたことは、祭壇を築くことだった。それは神との関係を築く行為であった。ノアにとっての新しい生活は、この神との関係から始まることを示している。ノアは外に出て、「さあ、やるぞ」と言ったわけではない。また、こういう計画を立てて、こうやっていこうと考えたわけでもない。ただ彼は、神を礼拝したのだ。神を礼拝する。神の前にひざまずく。神と向き合う。そこから彼は、全生活を築き始めたのだ。そこからしか新しい生活は始まらないからだ。何かうまい考えがあって、そこから新しい人生が始まるなんてことはないのだ。神との関係を築き、神と向き合う、そこから私たちの生活は毎日新しく始まっていくことを教えられる。祈りに始まって祈りに終わる信仰生活だ。週の初めの礼拝から始まって一週間を主と共に歩み、また礼拝へと戻っていく、礼拝を中心とした信仰生活である。それは神を中心とした生活、主と共に歩む生活と言えるだろう。

次の21節を読むと、神は、ノアが捧げた祭壇の動物の香りをかいで、一つの決心をしたと書いてある。これが実に不思議な文章。神はこの地をもう二度と呪わないと言われるのだ。そしてその理由がまったく不可解。人が心に思うことは、もう生まれつき悪いから、だからもうこの地を呪うことは再びすまいと言うのだ。本当に悪い、根っから悪いから、もう呪わないというのである。

本当に人間は根っから悪いから、もうこれは滅ぼすしかない、というのであれば話はよく分かる。こんなひどい世界だから、もうこれは滅ぼすしかないだろう、と言うのであれば話はよくわかる。しかし、神は、根っから悪いから、もう呪わない、と言われる。実はこの言葉の中には、神の決意が込められている。如何ともしがたい人間だから、この人間を救うために、神がご自分で痛みを負うしかない。この責任を負うしかない。そういう決意がこの言葉には込められているのである。

子どもの問題に苦しみ抜いた親が、如何ともしがたい子どもの行状、そのツケは自分が払うしかない、自分が代わるしかない、ということがあると思う。ここに記されていることは、まさしくそのことだ。どうにもならない。だから、神ご自身が苦しんで、この人間を救うしかない。苦しめても人間は変わらない。試練を受けて、人間が目が覚めるかというと、覚めやしないのだ。人間に巣くう原罪。だから、彼らのために私が苦しむと神は言われる。

もう二度とこの人間を呪うことはやめよう。この言葉の背後には、十字架がある。だから、私たちには呪いがない。十字架があるからだ。神ご自身が十字架の上で、神からの呪いを受けて下さったからだ。神の痛みがあるから、私たちに呪いはない。これが聖書のメッセージ。私たちはしばしば自分の罪におびえる。バチが当たるのではないか。いいえ、バチはない。救われている人間にバチはあたらない。

さらに22節にこうも書いてある。「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」。私たちのこの人生には、夏もあれば、冬もある。厳しいのだ。いつも春みたいな中を生きられるわけではない。働かなければならない昼もあれば、暗い夜もある。楽な時はない。寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も必ず巡ってくる。雨の日もあれば風の日もある。暗い日もある。それが、私たちの生きているこの人生。しかし、そのすべては収穫につながるのだ。地の続く限り、種蒔きも刈り入れもやむことはないと言われている。すべては収穫につながるのだ。

 

昼も夜も巡りくる。暑い日も寒い日もやってくる。避けることはできないが、そのすべては、人生の種蒔きの日々。ただ苦しい、つらい日々ではない。そのすべてのことが、刈り入れにつながるのだ。だから、私たちの人生に、呪いもバチもない。すべてが収穫、恵みにつながる人生を与えられているのである。