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この人を見よ

2021年10月10日 主日礼拝宣教

「この人を見よ」マルコによる福音書10章13-16節

 人生の道すがら、人は時として予期せぬ事態に遭遇する。10年前の東日本大震災のような大災害もあれば、今回のコロナ禍のように日本のみならず世界中で同じ危機に直面する出来事もある。一方、日々の生活の中での思わぬ出来事もある。たとえば、つまづいて転んだとか、スマホを忘れたとか。そのように考えてみれば、一日一日、出会う出来事というものは同じようなことの繰り返しだと思われるが、どれも初めての新しい出来事の連続である。その新しい一つ一つの出来事に対し、どのように向かい合い、どのように対処していくかで、その人物がどういう人物かが決まってくるように思う。社会的地位の如何によらず、学歴の如何によらず、男女の如何によらず、一人の裸の人間として具体的な出来事に対して如何に応じるか、人間の価値はそこで決まるのではないだろうか。

 実はマルコ福音書は、その真実を伝えようとして最初に書かれた福音書である。すなわち、「イエスとは誰か」「イエスとは何者か」を語るに際し、イエスに称号を当てはめて理解するのではなく、例えばイエスは「神の子」であるとか、イエスは「キリスト(油注がれた者)」であるとか、イエスは「メシア(救い主)」であるとか、そうした称号で理解するのではなく、イエスが具体的な出来事に出会って何をしたかを、一つ一つ丁寧に描くことによって「イエスとは誰か」「イエスとは何者か」を示そうとした試みである。

 人はとかく称号というかレッテルに惑わされてしまう。どういう職歴か、どういう学歴かでその人物が分かったように思ってしまうのだ。そうした称号やレッテルを一切取り外し、その人物が一つ一つの新しい具体的な出来事に対して、如何に応じていったかを描くことによって、その人物の本質、本性を捉えようとした試みがこのマルコ福音書である。

 その実例を今日の聖書箇所で見てみよう。この出来事は、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れてきた。」(13)ということから始まる。「子供たち」と訳されているが「幼子」と言った方がこの場面ではふさわしいと思う。「イエスに触れていただく」とは、主イエスに手を置いて祝福してもらうためだと考えられる。しかし、その時の弟子たちの反応は、幼子の存在を否定的に見ている。受け入れていない。だから、叱ったのだ。「女、子どもの来るところではない」という差別と偏見が垣間見られる。それに対して、主イエスは非常に憤りを感じられて、弟子たちを激しく叱責される。主イエスにとっては、むしろ「このような者たち」こそ、彼のもとに来るのがふさわしいと考えておられるのだ。「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。そして、主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、幼子を抱き上げ、祝福される。このような主イエスの具体的な態度や言われた言葉などから、「イエスは誰か」「イエスは何者か」が具体的に描かれているだろう。 

このことは何も幼子だけのことではない。マルコ福音書を読むとき、「この人を見よ」という思いで、主イエスが何をされたか、何を語られたかに注視して読むと、主イエスがどのようなお方であるかよく理解できる。そこからわかることは、主イエスは、女性に対しても、罪人に対しても、障害や重い病にある人にも、異邦人にも、いわゆる社会で小さくされたもの、弱くされた者、周辺に追いやられている者などに対して、正面から向き合い、教え、宣べ伝え、癒されたということだ。だから、私たちもまた神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして受け入れて下さるお方であると信じることができるのである。

最後に、この場面で大切な「神の国」ということについて少し考えてみたい。主イエスは、「 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15節)と言われた。このことで幼子を神格化というか天使のように思う人があるが、幼子といえども非常に勝手な面があり、素直であるが反面頑固なところもある。本人が自覚しているかどうかは分からないが、やはり人間の醜い面を備えているものだ。しかし、ペスタロッチ(スイスの教育実践家)が言うように、乳飲み子という言葉からしても、幼子は飲み込む、受け入れるという特色があると言っている。その受け入れるという点にこそ、幼子をイエスが引き合いに出されたゆえんがあるのではと考えられる。

 

 私たちの信仰生活を考えると、入ることが出来たら受け入れていこうという態度があるように思う。神の国に入ったら、神の国は良いから受け入れていこうという態度である。それに対して、主イエスは受け入れることによって入ることができるのだと言われたのだ。逆である。主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ635)と言われた。私たちは飢えることがなかったら、この人は命のパンだと思うが、イエスは信じなければ、イエスが命のパンであることが私たちにはわからないと言われているのだ。主イエスが特別に強調されているのは、幼子のように素直になれとということよりも、信仰は受け入れ、信じることが先であり、そののちに神の国に入ることができるのであるという点である。そのためにこそ、「この人を見よ」である。福音書をはじめ聖書を通してイエスとは誰か、イエスとは何者かをしっかり見て、主イエスを受け入れ、信じていくことが大事である。それは日々の生活の中で十字架の主を見上げていくことでもある。そのことによって日々出くわす様々な出来事をどのように処していくかが教えられるのである。主を見上げ、主と共に歩んでいこう。