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問題解決の信仰的態度

2021年10月3日 主日礼拝宣教

「問題解決の信仰的態度」 使徒言行録6章1-7節 

 問題は起こった時が肝心である。生きている以上、問題は避けることができない。避けようとすれば神経質になり、そのことにとらわれて、ついに人を恐れ、勇気を失うだろう。問題はその時の私たちの態度である。その態度によって、その人の本性が表れる。そこで、今日の聖書箇所から、使徒たちの教会に起こった問題を解決する態度を見て、学びたい。

 初代教会で起こった問題は、「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていた」(6:1)ことであった。初代教会は教勢が伸びていくなか、貧しいやもめを配慮する愛の業にも励んでいたが、その働きが十分に機能していなかったようだ。使徒たちは、それを真剣な事態としてとらえ、取り組んでいった。

そこで信仰が問われる。「神の言葉をないがしろにして」(6:2)。まさにそれ。その時、私たちが神の言葉を中心にしてきたかどうかが問われる。問題のないことを喜ぶのではなく、神の言葉によって問題を解決する力を上から与えられることを喜ぶのである。この世の悪の中にありながら、それを変えて良くする力を神からいただくのである。

ここで神の言葉を中心にするとは、決して精神主義のことではない。「まあ、お互いに神様から霊の賜物をいただいているのだから、少しくらいのことは我慢しよう」とか、「なんて不信仰だ、たかが物の配給のことではないか、物質的なことで騒ぐとは、愚かしい」とも言わない。かといって「これは大変なことが起こった」といって騒ぎまわる態度でもない。そういうことはかえって事を大きくするばかりである。

神の言葉を中心にするとは、御言葉から事態を正しく見て、冷静に解決することである。2節から4節を読むと、使徒たちの提案は一見事務的にさえ見える(6:2-4)。しかし、その事務的処理の中に御言葉が生きていないだろうか。まず、全会衆を集め、会議を開いた。しかし、第二に御言葉を中心にした。第三にここで制度を作って、その役目に委託した。しかし、その委託は使徒が提案して、全会衆の支持によった。さらにその制度は霊的に生かされたものであった。だから「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」が選ばれねばならないのだ。しかも按手により手をおいて、このことは神によることであることを現わしたのだ。

もちろん教会も、時として誤りを犯すが、しかし、正しい教会はたえず十字架のキリストに帰っていく。悔い改めと赦しである。この十字架の主に帰ってゆく力を失った教会は、もはやキリストの教会ではなくなる。さらに教会の大事な点は、外にある、他の罪と戦うだけではなく、自分の罪とも戦っていかなくてはならない。真剣に自分の罪と戦ってゆく時、教会は真に「禍い転じて福とする」ことができるのである。

 

ここでは、つまり二つのグループの中で弱い肢、つまりギリシア語を話す方が尊重された。第一コリント12章にあるように「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(第一コリント12:21-22)とある通り。他の弱さを互いに負ってゆく時、二つのものを一つにしたもうイエス・キリストの十字架の愛が十全に現れるのである。