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私は何者か

2021年9月26日 主日礼拝宣教

「私は何者か」ヨハネの手紙一3章1-3節

 人は誰でも自分の生き方が分からなくなり、「どう生きたらよいか」「私は何者か」と自問する時がある。「論語」に「四十にして惑わず」とあるが、四十を過ぎても惑うことばかりで、それが現実の人間の姿ではないか。それは「アイデンティティの問い」と言われ、それが分からないと、自分自身が分からず、自己喪失に陥ってしまう。自分を見失ってしまうのだ。

 今日の聖書箇所は、この問いに見事に答えている。「私は何者か」の問いに、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」(2)と答える。私たちには挫折の時があり、迷ったり、背いたり、無力だったり、病んだり、疲れていることもある。そしていつも神にふさわしくない自分を見る。しかし聖書は、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」と言う。この御言葉をそのままに受け止めなければならない。なぜなら、この御言葉には十分な根拠があるからだ。それは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1)である。

 聖書がここで「考えなさい」と言っているのは、実は「見なさい」という言葉である。何と大きな愛を神が私たちに下さったかを見なさい、と言うのである。ぼんやり考えていてはいけない。思い煩っていてはいけない。「見なさい、神が与えてくださった愛が何と大きいかを」と言っているのだ。具体的にはイエス・キリストを見なさいということである。キリストを見て、キリストとその生涯、そしてその十字架の出来事を見て、何と大きな神の愛が与えられたことかと知るのだ。キリストから目をそらし、自分自身を見つめ出したら、私たちはいよいよ自分が分からなくなる。しかしキリストを見ると、何と驚くべきこと、大きな喜びの奇跡が与えられていることを発見する。思いもよらぬことだが、私たちは神にとってかけがえのないもの、大切なものとされ、独り子を犠牲にしても慈しむものとされているのだ。そのことが分かってくるのだ。それが絶対者に対しての「相対化」の結果である。

一方、絶対的な他者がいなくて、自分自身を見つめても堂々巡りをするだけで、訳が分からなくなる。結果、虚無的になったり、無気力になったりする。また、絶対者でない他の人間と見比べてみても、相対化は相対化でも、それはしょせん比較しているだけで、優越感を持つか、劣等感を持つか、うらやむか、自慢するかであって、あるいはその比較の中でどの位置にいるのかがわかるだけで、周りの状況や立場が違ってくるとそれも変わる。結局、自分というものは一体何だったのだろうかという話にもなるわけである。私たちはそういうことに毎日振り回されながら生きているということだ。

 さて、ここで聖書が「私たちは、今既に神の子です」と言われるのだが、そう言われても、頭では分かっても、事実そうなっているということを実感をもって受け取ることが出来ない。なぜなら、私たちは手で触れたり、目で見たりするようなことから現実を見てしまいがちだからだ。しかし、信仰はそういうところから現実を見たり、自分を見ていくのではなくて、イエス・キリストから現実を見ていくことである。それが信仰の根本である。自己の相対化。自分を神に照らして相対化して見ていくときに、本当の己の姿が立ち現れてくる。

 ふつう私たち人間は、自分本位、自分中心だから、罪を赦されたと言われても何もうれしいことはない、神の子とせられても、そのことによって何も得することはないと考えがちだ。やはり毎日毎日食べることに汲々としておらねばならないではないか、というように現実からものを見ていくわけだ。これに対して、信仰というものは神の御言葉から現実を見ていく。自分は神の子とせられているのだからというふうに見ていく。金がたまったからうれしいとか、何やらができたからどうしたというような、こちらから見ていくのではなくて、神のみ言葉から現実を見ていくことが信仰の姿である。この視点を持っているということが人生をしたたかに、同時にしなやかに力強く生きていける秘訣である。

 

 この逆転の立場と言っていい人生観、世界観というものがクリスチャンの生き方である。これをしっかり身につけていただきたい。そうすれば信仰は両刃の剣のようなもので、どんな難しい問題がやって来ても、どんな悩みの中にあっても、「たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません」(詩編23)と、すべてのことをえり分けていくことができるのである。