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イエスさまの目線

2021年9月19日 主日礼拝宣教

「イエスさまの目線」ルカによる福音書19章1-10節

 今日の「徴税人ザアカイ」の物語は、ザアカイが金持ちであり、人から疎外されるような生活をしていたこと、また主イエスに出会って、全く新しい人間に変えられたことが読み取れるが、ここで聖書が私たちに教えようとしていることの一つが、ザアカイという一人の人を見る神の目についてである。

ザアカイは人々から嫌われ罪人扱いされていた。それは人々の偏見や金持ちであることへのやっかみもあったと思うが、ザアカイにも人に理解されない性格や行いなどの人間的な欠点や弱さがあり、それがザアカイ自身の問題を作り出していたと思われる。彼自身も「だれかから何かだまし取っていたら…」などと告白している。私たちがそういう人と付き合っていると、いろいろな誹謗中傷を受けたり苦しんだりするので、そのような人は避けて、できるだけ無難な人との付き合いを求めるようになる。しかし、主イエスはザアカイを愛された。それは彼の中に価値を見出されたからではなく、彼も「アブラハムの子である」と見られたからである。それが神の人を見る目だと思う。「アブラハムの子」とは、救いが約束されている民という意味。

 つきあって何の役にも立たない、かえって損になるような人、いやな人、またどんな性格の人であっても、その中にアブラハムの子であるというものを見出していくところに、主イエスが来られた意味がある。本来はアブラハムの子であるから、素晴らしい信仰生活をしていなければならないはずだ。しかし、そういうものを失ってしまっている人に、もう一度自分がアブラハムの子であることを分からせるために、主イエスは来られたのだ。

 人間関係は信頼するということが一番大切だと思う。人から信頼されると、私たちはそれを裏切らないように心掛ける。信頼していくということは、結局は勝利だと思うが、同時に非常に難しいことである。信頼を裏切っていく者をなお信頼していくところに、主イエスが生きられた道、語られた教えがある。人を本当に立ち返らせていく力というものは、人の非や欠点、短所を突くことではなく、その人を肯定し、信頼していくことである。それはあらゆる世界において言えることではないかと思う。

 ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、主イエスが彼を信頼されたからである。先に声をかけられたのは主イエスである。主イエスは私たちに対しても、アブラハムの子である、神から愛されている者であるというまなざしで見ていかれるのだ。

 ところで、その主イエスの愛のまなざしはどのような目線であったのだろうか。主イエスは木に登ったザアカイの下に来られた。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」(5)と書かれている。救いというと、救い上げるという言葉をなんとなく思い浮かべる。上にいる、天にいる神が、私たちに救いの手を差し伸べて、救い上げてくださると考える。でも、救い主イエスは、ザアカイよりも下に来たと聖書は語っている。そしてさらに、主イエスはその後、ザアカイの家にまで出かけてくださり、客となられた。客となるということは、心を許す友となるということだ。主イエスはザアカイの友となられたのだ。

 

 徴税人の頭ザアカイの物語の最後にこう書いてある。「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」。私たちに与えられた福音は、この失われたもの、失われた魂の救いである。木から降ろしていただき、しっかりと救い主に受け止めていただく経験である。そこに悔い改めが起こる。そして新しい人生が始まる。今日もまた、主イエスは私たちに言われる。「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。