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イエスとの交流体感

2021年9月12日 主日礼拝宣教

「イエスとの交流体感」マルコによる福音書5章25-34節

 「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた」(25節)とマルコ福音書は書いている。レビ記の規定(12章、15章など)から言えば、彼女は十二年間も出血が止まらず、したがって十二年間もの長い間、不浄な者、汚れた者とみなされてきたことになる。この女性が何歳くらいの人であったかは不明だが、十二年間という年月から推測すれば、彼女の青春の日々は出血の苦しみに加え、穢れている者として社会生活からも排除された孤独なものであったと想像できる。マルコ福音書もそうした彼女の人生を思ってか、同情を込めて描いている。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(26節)。これが彼女の十二年間の人生だったのだ。

 マルコ福音書はこの病気の女性の側からイエスを描いている。そして同時にイエスの側からも書いている。イエスとこの女性の両方からの視線で書いているのがこの物語である。その点を少し詳しく見ていくと、まず彼女は「病気がいやされたことを体に感じ」ている。一方、それに呼応するようにイエスは「自分の内から力が出て行ったことに気づいて」いる。二人はほぼ同時にお互いの体で感じ合っているのが分かる。彼女が病気を癒されたこと、イエスの体から力が出て行ったことをお互いの体でそれぞれに感じ取っていることがここで起こっている。このイエスとの相互の体感、交流体感と言ってもよいが、それこそがイエスとの出会いであり、ここでは病気の癒しとなって起こっているのである。こういうことって、皆さんの生活体験の中でないだろうか。お互い、ピィ、ピィと感じ合うものを感じた、というようなことが。

 さて、その時、イエスはさらに次のように言われた。「群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』」(30節)。これは不思議な行動に見える。彼女はすでに癒されているのだから、余分な行為にも思える。しかしここに大切な意味があるように思う。もっとも、弟子たちにはイエスのその行為の意味は分からなかったようだ。「そこで、弟子たちは言った。群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(3132節)。

 交流体感とはお互いに相手を認識し、触れ合い、心を通い合わせることによって起こるもの。イエスの後ろから服に触ったこの女性は、出血は癒されたが、しかしそのままでは以前と同じように蔑視と差別の中を生きていかなければならない。それでは癒しとは言えない。肉体的に癒されることは治癒であっても、それは癒しではない。彼女の生活を含めて全生活が回復されないと癒されたことにはならないからである。

 「わたしの服に触れたのはだれか」、イエスはこの女性を見出そうとされる。イエスは女性と人格的に向き合おうとされる。その時、彼女はイエスの言葉に、「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてありのまま話した」(33節)とある。ここでの「恐ろしくなり、震えながら」という表現は、復活の出来事に出会った女性たちが示した姿と同じである(マルコ168節)。これは偶然の一致だろうか。そうではなく、ここでマルコ福音書の著者は、この彼女の体験は、あの復活の出来事の体験と同じものであったと言っているように思われる。そうであれば、イエスはここでは復活のイエスとして彼女と出会っておられる、と理解できるのではないだろうか。この物語は病気の癒しの物語であるとともに、復活の体験の物語でもあるのではないだろうか。復活の体験、それは新生、新しく生まれ変わった体験と言ってもいいだろう。だから、イエスは彼女に、「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言って励まして送り出している。

 

この女性のその後の人生については何も語られてはいない。しかし、自分の身に起こったあのこと、復活のイエスと出会ったその共同体感、すなわち新生の経験をその後も彼女は生き生きと語り続けていたのだろう。マルコ福音書の著者はじかにその話を聞いて、その言葉の端々に彼女の経験したあの体感を同じように感じたのではないだろうか。私たちも今日、聖霊の助けをいただきながら、改めて、このマルコ福音書のみ言葉から同じようなイエスとの交流体感、そして新生の経験、そして生きる希望を受け取っていきたいと思う。