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人生の再解釈

2021年9月5日 主日礼拝宣教

「人生の再解釈」 詩編22編2-22節

 詩編22編は人間の苦悩とは何か、一体、信仰者はどういうことに苦しむのかをよく言い表している。それは死の苦しみの呻きだろうか。この詩人は今ひどく不安に襲われている。死の病に取りつかれ、熱と苦痛、そして不安のために身の置き所がないのだ。その上、周囲の人々が、彼を苦しめる。「わたしは虫けら」「人間の屑」「わたしを見る人は皆、私を嘲笑い」とある(7-8節)。彼は苦痛の中にあって、しかも孤独。「助けてくれる者はいないのです」(12節)と嘆いている。

 そのような中にあって、この詩人は苦しめる最大のことは、病の苦痛でもなく、また人間の非難や中傷でもなく、それは「神に見捨てられること」(2節)と語っている。ここで詩人は、何よりも深い苦しみは、神に見捨てられること、神が私たちの嘆きの言葉から身を背け、遠くにいて、身を向けてくれないことだと言うのだ。それが人間を絶望の淵に落とすのだ。

 しかし、この詩人は、その絶望の中でなお「わたしの神、わたしの神」(2節)と呼んでいる。それは、絶望の中で、なお神を信じ、神に信頼を寄せているからではないか。それは、「母がわたしを身ごもった時から 私はあなたにすがってきました。母の胎にある時から、あなたはわたしの神」だからだ(11節)。詩人はここでこれまでの自分の歩みを振り返っている。また自分の先祖の歴史を想い起している(5-6節)。そして、そこに示された神の憐れみを想起している。そのことがこの詩人を支えているのだ。

 この詩人のように、だれでも自分の人生を再解釈することができるのだ。解釈し直して、正しく理解することができるのだ。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」というように、誰でも人生をそう受け取り直すことができるのだ。それは、神と出会い、神の愛を受け入れ、神の救いを信じることから起きてくる。

 では、その救いとは何か。この詩人の場合、病を癒されたのでも、敵がいなくなったのでもない。そこにあるのは、「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません」「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださる」(25節)ということだ。苦しむ者の苦しみを軽んじない神がおられる。それが神の救い。病が癒されたか、敵から救いだされたか、それは分からない。しかし分かっていることは、救いに入れられると人間は変わる、人間は救いの中で変えられるということ。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれ」ないという方が存在する、言い換えればそのような希望が持てるということだ。「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださる」方がおられるという希望。苦しむ者の苦しみを軽んじない神がおられるという希望。そのような希望が持てた時、信じられた時、今までの人生の歩みを振り返ってみると、今までの人生での出来事、あり方の意味が再解釈されてくるのだ。それが新しく生まれ変わるということでもある。

 主イエスが十字架の上で、この詩篇22編の祈りをご自分の祈りとされたことが福音書に書かれている。それは、この詩人の苦しみ、そしてこの詩に託されたイスラエルの民とあらゆる人間の苦しみをご自分のものとされたということである。そのことは、苦しむ者の苦しみを神は軽んじないということが、主イエスの十字架によって決定的な証拠をもったということだ。そこに救いがある、希望がある。

 神が御子イエスの受難の中で、苦しむ者に目を向けてくださり、苦しむ者の苦しみまで降りて来られた。それだけではなく、主イエスは苦しむ者、神に見捨てられたと思われる者の身代わりになられた。主イエスは、苦しむ者の傍らにいてくださり、代わってその苦しみを負ってくださった。それは苦しむ者も神に見捨てられていないということ。ここに私たちの救いがあり、希望がある。

 

 救いとは、あなたの苦しみを神が軽んじないということ。神があなたに恵みをもって全身を向けてくださること。神が愛をもって共におられ、捉えてくださるということ。そのとき、私たちも変えられ、人生の再解釈がなされ、感謝と賛美を歌うことが出来るのだ。