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信仰は聴くことから

2021年8月29日 主日礼拝宣教

「信仰は聴くことから」 申命記6章4-5節

 人から話を聞いてもらっている時、こちらの思いを十分にくみ取ってもらったと感じると、思わず「そーなんです」という言葉が出てしまう。自分の思いが相手に伝わって、ひとりで悩んでいた自分のかたわらに、同じ悩みを共有する存在をもったかのような思いが湧いてきて、気持ちが軽くなるのを感じるだろう。

 気持ちを理解してもらえたというステップを踏んだ者は、次のステップに向かって歩み出す。今までの自分と違う、新しい自分の姿を発見するのだ。そうなると、それまでの生き方と違う何かが生まれてくる。その瞬間「あっ、そうか」と言うだろう。今まで考えてもいなかった世界が自分の中にあることを発見した驚きである。「そうか。こういう生き方もあるのだ」と同じ自分の世界でありながら、今まで見えていなかったものが見えてくるのだ。

 信仰のありようもこれによく似ている。話を聞いてもらう相手は神さまである。何でも話せる。話す手段はお祈り。祈りは神さまとの対話だから、話すだけではない。神さまからの声を聴く時でもある。雑音にじゃまされずに「耳を澄ませて」聴かなければならない。

 神の声を聴く時は、祈ってる時だけではない。突然向こうからやってくる感じ。聖書を読んでる時、メッセージを聴いてる時、讃美してる時、いや道を歩いてる時や仕事や家事をしている時、突然「あっ、そうか」という神さまからの声を聴くことがある。なんだか嬉しくなったり、胸が熱くなってきたり、ほっとした軽い心持ちになったりもする。思わず「神さま、感謝します」という祈りがでる。そして、新しい自分の姿をそこに発見したり、それまでの生き方と違う何かが生まれてくる。そのように聴くということは大事なこと。

 聖書でも、私たちに「聞け、イスラエルよ」と呼びかけている。私たちは全身を耳にして向こう側から響いてくる声に耳を傾け、一心に聞かなければならない。「傾聴」、耳を澄ませて聞くのだ。主イエスも「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返し言われている(マコ4:9,23)。ヨハネの黙示録にも「耳ある者は、‟霊"が諸教会に告げることを聞くがよい」(2:7)と書かれている。

 そのように神とのコミュニケーションにおいて傾聴することが最重要であることが教えられる。祈りにおいても、説教の準備においても、牧会、伝道、様々な奉仕においても、一番重要なことは語ることでも考えることでもなく、まず聴くことだと思う。虚心坦懐になって、ただ無心に向こう側から響いてくるものに耳を澄ませる。どのような喧騒と混沌の中にあっても私たち信仰者にはそのような姿勢が求められている。

 なによりも信仰は聴くことから始まるからだ。パウロも、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)と語っている。しかし、私たちは聞くことの鈍いものである。黙して聞いているようでも、頭の中であれこれ考えていて案外聞いてないことがある。まして、言葉にならない思いを聞くことなどそうたやすいものではないことは生活体験の中で思い知らされている。相手の気持ちに焦点を合わせて一生懸命聴くということは決して楽なことではない。言葉を慎み、無となって相手の心に耳を傾けるよう心がけたいものだ。

 神の御言葉を聴くことも同様である。そのためには心のアンテナを神に向けなくてはならない。次に心のダイヤルを神に合わせなくてはならない。しかしそれだけでは、神の言葉は入ってこない。私たちの心の耳を開かなくてはならない。心の耳を開くという決断だ。スイッチを入れる決断。これが難しい。私たちは自分大事さに心を閉ざしがちだ。心の奥底をのぞかれたくないからである。

 しかし、心の耳は開かれなければ救い(自由と解放)はない。主イエス・キリストがその息を吹きかけてくださることを通して、私たちの心の耳を開いてくださるよう祈ろう。主は命じられている。「エッファタ(開け)!」と(マコ7:34)。声をかけるのは息(聖霊)を吹きかけるのと同じ。神の霊によって開かれるのだ。

 

 今朝、主イエスによって心を開いていただき、御言葉を聴こう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。