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感謝と祈りの包囲網

2021年8月22日 主日礼拝宣教

「感謝と祈りの包囲網」フィリピの信徒への手紙1章3-11節 

 今朝の聖書個所はパウロの感謝と祈りが書かれている。3節に「感謝する」とあるが、それはフィリピの信徒たちが「福音にあずかっている」(5)からだ。世には多くの感謝するべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかったのだ。

私たちも同じである。バプテスマを受ける人が起こされ、バプテスマ式の恵みに共に与ることほど、喜びと感謝なことはない。また、礼拝で多くの人と共に福音のメッセージを聞くことの恵みも感謝としか言い表せない。

 ところで、「継続は力なり」とよく言われるが、何でも一つのことを続けることは大切なことだが、簡単なことではない。むしろ続けるには大きなエネルギーが必要だ。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ということも、決して容易ではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪が赦され、滅びから救われることだ。それは「恵みにあずかる」(7)ことに他ならない。

 この「あずかる」と訳されている言葉はギリシア語の「コイノーニア」が使われている。「コイノーニア」は普通、「交わり」と訳される言葉だ。「交わり」はキリスト教の中心、生命線だが、教会で「交わり」という時、人と人との交わり(横のつながり)、神と人との交わり(縦の関係)のことを意味する。さらにそこに「霊の交わり」(21)があるかどうかがキーポイントになる。

 今、私たちはコロナ禍でこの交わりをなすことの難しさを経験している。感染防止のために接触を避けるよう言われているからだ。直接的な人と人との交わりが制限され、ZOOMなどのオンラインでの礼拝や集会、会議が多くなった。教会の奉仕や諸活動も自粛せざるを得ない。

 このように今回のコロナ禍の経験を通して思わされることは、私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえあると言えるのではないかということである。私たちはいつ信仰を失っても不思議でないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題があり、今回のコロナ禍のような障壁もある。このような現実の中で、福音にあずかれるということは、人間の力や業では全く不可能である。ただただ祈りによって、むしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6)、まさに十字架の愛のエネルギーによってのみ可能となるのではないだろうか。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と言い、感謝が泉のようにわきあがるのである。

 同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、とりなし祈ることだ。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、人のために祈る人がいる。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのだ。私たちも今日もそうだが、報告の後で、短い祈りの時を持つ。具体的に名前を挙げて祈る。そのことは私たちも同時に多くの人々や教会から祈られているということを覚えるべきだろう。感謝なことだ。

 さて、ここで「一同」(78節)という言葉が繰り返されているが、一人の例外もなく祈りの対象なのだ。しかもこの世の誰も、祈りや愛の対象から除外されている人はいないはずである。先ほども言ったが、私のために祈ってくれる人がいて、そのようなとりなしの祈りによって、私の信仰が支えられていることを覚えたいと思う。しかもそれだけではなく、聖書には、霊によるとりなしがあり、イエスによるとりなしがあるのだと書かれている(ロマ書8262734)。

 

 私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されているのだ。実際、多くの問題や危険に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見する時、私たちに生きる勇気が生まれる。励ましを受ける。それが「継続は力なり」という時の力となる。そのことを忘れないで、これからも主と共に歩む信仰生活に励もう。