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和解による平和

2021年8月15日 主日礼拝宣教

「和解による平和」マタイによる福音書5章21-26節

茅ヶ崎の有名人と言えば、昔、加山雄三、今、サザンの桑田佳祐。この人気バンドの楽曲に「ピースとハイライト」というタイトルの歌がある。ピースとハイライトと言えば、今は懐かしいタバコの銘柄。なんでピースとハイライトなのかというと、作詞者の桑田佳祐いわく、「ピース」には「平和」、「ハイライト」には「もっと日の当たる場所」という意味を込めたと言うのだ。

 この歌は「平和への願い」を歌詞のテーマに据えており、特に東アジア情勢を照らし合わせて、お互いの歴史を知ることで助け合ってほしい、という内容である。9年前に発表された歌。歌詞の一部を紹介しよう。「何気なく観たニュースでお隣の人が怒ってた/今までどんなに対話(はな)してもそれぞれの主張は変わらない/教科書は現代史をやる前に時間切れ/そこが一番しりたいのに何でそうなっちゃうの?/希望の苗を植えていこうよ/地上に愛を育てようよ/未来に平和の花咲くまでは....憂鬱(Blue)……」

 今日は終戦記念日。毎年の全国戦没者追悼式での最近の首相の式辞は、アジア諸国に対する加害者責任には触れず、「不戦の誓い」もない。もっぱら国内向けの戦没者に向けた追悼の思いだけだ。他の国々との関係を忘れた、あるいはないことにするというような内向きな思考に終始している。これでは外交の幅を狭め、自縄自縛の狭くて険しい道に迷い込むだけだ。

 そんな政権が続く中だからこそ、サザンよ、桑田よ、歌いまくってくれ!と私たちも応援したくなる。いやいや、私たちも共に「希望の苗を植えていこう」。時の権力者に警鐘を鳴らそう。歌でも文章でも漫画でもデモなどの行動でもいい。平和への道のりは険しいが、もう二度と戦争はしてはいけない、その意思を発信し続けていこう。平和憲法に生きる国民として。

 では今度は、聖書から「平和」について考えてみたいと思う。どの宗教にも重要な戒律がある。ユダヤ教は、「十戒」(出エジプト記20217)を中心とした「律法」である。似たような戒律はイスラームにもあるし、仏教にもある。紀元前18世紀に作られた人類最古の成文法と言われている「ハムラビ法典」にも共通の部分がある。その意味では、「十戒」は人類に普遍的な「道徳律」と言えるかもしれない。

 しかし、ユダヤ教徒にとってはそれは単なる「道徳」を超えた、特別の意味を持っていた。つまり、彼らはそれを「神の」命令として受け止めたのだ。さらに、その律法について、主イエスご自身は山上の説教で、自分が来たのは律法(十戒)を「廃止するためではなく、完成するため」であると言われ、その「一点一画も消え去ることはない」(マタイ51718)と明言している。しかし、その重要性を最大限認めながら、同時に十戒の条文を「原理主義的に」守ろうともしなかった。むしろ、律法の中で「最も重要な掟」は「神への愛」と「隣人への愛」であるという洞察(マタイ2237以下)に基づいて、「十戒」を新しく解釈し直したのだ(マタイ521以下)。私たちが「十戒」を読むとき大切なのは、主イエスが示されたこの道ではないか。

 たとえば、第6戒の「殺してはならない」。確かに私たちはこの戒めを知っている。しかし、私たちはどこかで「正当な殺し」を模索していないか。「もし侵略されたら、もし愛する者が襲われたら、そんな時には相手を殺しても仕方がない」と思う。確かにそんな「極限状態」に見舞われた時、この戒めを守ることができるかどうか正直心もとない。戦争やテロが現に起こっている今日、なおさら私たちの思いは「正当な軍備」「正当な防衛」「正当な報復」へと傾いていく。

 しかし、神はただ「殺してはならない」と言われたのだ。そこには状況に対する説明も、条件も何一つ語られてはいない。すなわち「こんな場合は、殺してもよい」とは言われていない。どんなに大変な状況であったとしても私たちが殺すなら、この戒めによって私たちは問われるのである。

 では、「殺す」とは何を意味しているのか。それは命を奪うこと。相手の「存在を否定すること」ではないか。主イエスはこう語られた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。怒りや敵意、さげすみは、相手の存在を否定することであり、殺すことと同じだと、主イエスは言われるのだ。「殺すな」は、命を奪うことだけではなく、それに通じるあらゆる道を問うている。 

戦争は、どんな理屈を言っても相手を殺すことだ。あるいは物を破壊することだ。私たちは、そんな戦争を否定する。同時にそのための備えも、それに対する協力も拒否する。なぜなら軍備の必要性は、敵を想定することによって正当化されるからである。ミサイルを発射させ得るのは私たちの持つ敵意である。暴力の肯定、軍備、有事体制などを正当化するのは、すべて敵意から生まれる。主イエスは、この敵意と殺しを同じことだと言われているのだ。御言葉に生きる私たちは、敵意や軍備そのものを否定する。

 キリストは、「敵意という隔ての壁」(エペソ214)を取り除かれた。これが私たちの希望である。すでに主は勝利されており、敵意の問題は解決している。この希望を信じる私たちは、地上から敵意がなくなるように努力するだけだ。

 戦争のために「正当化の理由」を探すのではなく、敵意を取り除くというキリストの業に参与することによって、地上から戦争の備えと戦争そのものを無くすのである。殺すなという戒めは、単に命を奪わないということのみならず、この世界から敵意を取り除くというキリスト者の使命を指し示している。これが和解による平和の構築。これがキリスト者の使命。

 

 こんなことを言うとすぐ、そんなのは理想主義だと言われる。現実を見ろと言われる。しかし、現実を冷静に見るからこそ見えてくるものがある。それが人間の内にある敵意(罪)という壁。だから、それを取り除こうという働きをしていこうとしているだけだ。そのために具体的などんな働きがあるか。いろいろあると思うが、中村哲医師のアフガニスタンでの働きはまさにそういう働きではないか。具体的な働きを通して信頼関係を作っていく。時間はかかるかもしれないが、急がば回れ。忍耐と努力が求められる。キリスト者は「敵意という隔ての壁」を取り除かれたキリストに倣い、そのために祈り、働く。