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関係性の回復

2021年8月8日 主日礼拝宣教

「関係性の回復」エゼキエル書341116

 某飲料メーカーに「お~い、お茶」という、皆さんよくご存じの商品名のお茶がありますが、私は最初、あまりにそのものずばりのネーミングにびっくりしましたが、今では私の好きな緑茶飲料であります。

 ところで、皆さんはこの「お~い、お茶」という言葉が、「お茶を入れて持ってきてくれ」と言われているように聞こえますか。それとも、「お茶を入れて持ってきてくれ」と言っている自分の言葉として聞こえますか。どちらとも取れますね。いつもサービスを与える側にいる人なら、「お茶を持って来てくれ」と言われているように聞こえるし、いつもサービスを受ける側にいる人なら、「お茶を持って来てくれ」と頼んでいる自分の声に聞こえるでしょう。その立場の違いでしょう。「お茶を入れて持ってきてくれ」といつも言っている人は、たまにはお茶を入れてあげないと愛想つかされますよ。聖書にも「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録2035)とありますからね。

 でも、どちらの立場にあっても、「お~い、お茶」と呼んだり、呼ばれたりする相手がいることは幸せです。サービスを受ける喜び、サービスを与える喜びがこのさりげない日常会話にはあります。お茶を介してお互いの信頼関係の確認。これがコーヒーでもいいですよね。いずれにしてもささやかな幸せ。これって、大事ですよね。

 先日の新聞に次のようなショッキングなことが書いてありました(朝日新聞Reライフ2021731)。「国立社会保障・人口問題研究所は4年前の調査で独居男性高齢者の7人に1人は『2週間のうち一度も会話をしていない』という調査結果を発表しました」。この記事を読んで、教会で何か出会いと交わりの場が提供できないかなと思った次第です。「お~い、お茶」と呼ぶ相手のいない人の寂しさを考えるとそういう人の相手になってあげたいと思います。教会がそういう交わりの場にもっともっとなったらいいと思います。「お茶でも飲もうよ」と気楽に声をかけあう場が欲しいですね。

私たちの教会でもできないでしょうか。祈っていきたいと思います。

 というのも愛は関係性のないところでは成り立たないからです。愛は相手があって成り立ちます。だから出会わないと始まらないのです。「お~い」と呼ぶことから始まるといっていいでしょう。かつて、平塚で行っていたホームレス支援の夜のパトロールは「こんばんわ」から始まって、「寒くない」「具合はどう」「何か困ったことない」などといった何げない声かけから始まります。それは関係性の回復を目指す第一歩なのです。エゼキエル書3416節に次のように書かれています。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(エゼキエル書3416)。

 このエゼキエル書34章を読んでみますと、11節で「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と言われているように、神ご自身が一人の牧者となると言われます。この背景には、南ユダ末期のイスラエルの牧者としての役目を果たすべき指導者(リーダー)たちに対する批判がありました。34章の2節以下に書かれていますように、彼ら指導者は群れを養うことなく、自分自身を養うことに汲々とし、権力で群れを支配したからです。まるで牧者とは何かを明らかにしている反面教師のようです。それに対して神は彼らに代わって自ら牧者となり、群れを養うと宣言されます(3411)。そして、真の牧者とは、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(3416)というのです。これこそが牧会であります。牧会と聞くと、外に向かって働きかける伝道の働きに比べるとやや内向きの印象を与えます。しかしここに描かれた牧者の働きには、積極的な面が牧会に隠されていることを教えるものです。まずは養うべき群れを探し求めることから牧会は始まるのであり、群れの一人ひとりに優しい配慮がなされると同時に、牧会を妨げるものを排除する強さも発揮されねばならないのです。まずは相手を探し、関係性を築き、信頼を作り、互いにリスペクト(敬意)を持ちつつ、共に生きていくあり方です。

 ヨハネによる福音書2115節以下に、主イエスがペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と三度言っている場面があります。主イエスがペテロに「わたしを愛しているか」と問われて、ペテロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えると、主イエスは言われるのです。「わたしの小羊を飼いなさい」。この問答が三度繰り返されます。この問答は主を愛するなら、羊を愛しなさい。隣人を愛しなさいということを言わんとしています。いつも言っていますように、神を愛することは、隣人を愛することと表裏一体のことなのです。

 

 そして、私たちが人を愛するのは、その人が素晴らしく好感が持てるから愛するのではなく、その人を神が愛しておられ、神が愛された羊である、というところから出発するのです。この世において全く関わりのない人にも神はその人に「わが羊」と言われた、そこに関わりの原点を見出していくのです。