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闇から光に

2021年8月1日 主日礼拝宣教

「闇から光に」使徒言行録26章12-18節

 使徒言行録には、パウロの回心の記事が前後3回出てくる。このように何度も出てくることは、それがパウロにとってだけでなく、教会にとっても原点ともいうべき、絶えずそこに帰ってゆく、「そこから」だからなのではないだろうか。そして、この信仰の「そこから」は、常に「上から」からやってくるのだ。13節に「私は天からの光を見たのです」とパウロが言っている通りである。つまり私たちが企画したものではなく、神から来るものなのだ。しかもそれは、苦しみ、戦いと関係のあるものばかりだ。

 パウロの主イエスへの反抗、否定はどこから来たのだろうか。パウロの罪は、いわゆる道徳的な悪ではない。泥棒したり嘘をついたり、むさぼったりといったものではなかった。また、偶像を造って拝んだのでもなく、まして無神論をとなえて、人間中心を主張したわけでもない。それどころか、ユダヤ教のファリサイ派と言われている、きわめて真面目で信仰的熱狂者でさえあったのだ。むしろ彼の罪は、その正しさ、善の中にあったのだ。それは独善、自己確信、手前味噌、傲慢、思い上がりにほかならない。この罪は要注意だ。やっかいである。正しさの中に宿る罪である。放蕩息子の譬えで言えば(ルカ1511以下、2930節)お兄さんの罪であり、あるいはルカ福音書189以下に出てくる、「私はあの取税人のような者でないことを感謝します」と祈ったパリサイ人の罪である。

 今日の聖書箇所のすぐ前の11節にあるように、パウロは、「至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し」(2611)たのだ。そこには、弱さや思いやる心はみじんもない。放蕩息子のたとえのお兄さんも同じだった。弟の弱さやそれを思いやる心、言うなれば愛だが、それが欠けている。自分の正しさだけ。正義は、愛を失う時、もはや神の義ではなくなる。それゆえパウロは、ダマスコ途上で、まったく弱くされた。彼は天よりの光を見て、地に倒れた。それはイエス・キリストからくる、啓示の光にほかならない。パウロは、今、真の光を見るために一度、目が見えなくなるようにされねばならなかったのだ。闇の中におかれたのだ。

 再び目が開かれたパウロは、はじめて他の人の目を開くこともできるようになった。「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせる」(2618)ことができるようになった。パウロ自身、目が見えなくなり、そしてやがて目が見えるようになった。闇から光に、という経験をさせられたからである。

 さて、キリストの復活の福音、メッセージは、総督フェストスにとって、狂気に思えた(2624)。そのことは、アテネでも愚かしいことのように扱われている(173132)。しかし、そこにこそ、真のいのち、「いのちの泉」が宿ることを誰が知りえるだろう。一体、死に際して、どこに望みがあるのか。望みがあるのは、ただ復活の福音、メッセージのみである。それは理性ではなく、理性をもお造りになった、創造者なる神の力である。聖霊の働きにほかならない。無から有を生ぜしめる、神以外の何者でもない。「天からの光」である。理性は言う、「いのちから死へ」。このようにすべては進むと理解する。しかし、そこには絶望か虚無しか生まれない。しかし復活信仰は言う。ヨハネ福音書524に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。このように宣言し、約束してくださっている。

 

 私たちの復活信仰は、「死からいのちへ」、「闇から光へ」である。「絶望から希望へ」である。そこに希望を見る。そこから生きる力、いのちをいただく。パウロの回心の体験は「闇から光へ」であった。同じように私たちの回心の体験も「闇から光へ」ではなかったか。私たちは今、永遠のいのち、希望、生きる力をいただいて生きている。この恵みに感謝して、さらに生き生きと証しある生活をしていきたいものだ。