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執り成しの祈り

2021年7月25日 主日礼拝宣教

「執り成しの祈り」 詩編106編19-23節

詩編106編は、古代イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれた、いわゆるバビロン捕囚が時代背景にあると言われている。だから、ここにはなぜ自分たちの国が滅んで、遠くのバビロンに捕囚として連れて行かれたかという深い反省がある。それでこれでもかというぐらいに、イスラエルの罪と反逆が挙げられている。

例えば6節に「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。」とあるが、詩編の作者は、先祖の罪は、今の自分たちの罪でもあるとの思いがあるのだと思う。誠に鋭い罪の感覚と言える。

ところで、106編の最初の1節と最後の48節を見ると、そこには「ハレルヤ」が出てくる。この詩編は「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっている。ハレルヤがサンドイッチのように、始めと終わりにある。最初の節と最後の節の「ハレルヤ」が詩編全体を「囲い込む」形を取っている。ハレルヤとは「主を賛美せよ」だ。これでもかと罪を列挙して、「主を賛美せよ」、ハレルヤとは。どういうことだろうか。それは、一言で言って、イスラエルのそのような罪にもかかわらず、神がその民を見捨てていないということにあると思う。ハレルヤの根拠は神の側にあったのだ。

この詩編において、繰り返し出てくる言葉は、人間側の「忘れた」という言葉だ。13節、21節、22節に繰り返し出てくる。人間の側の「忘れた」と対峙している言葉は、神の「思い起こす」だ。45節に出てくる。

実は、神とイスラエルの民とは契約関係にあるが、その契約は片務契約というものだ。神の方からの一方的な契約だ。私たち人間同士の契約は、双務契約と言う。例えば、お金を借りたい、では貸しましょう。そして互いに貸す金額と返済方法を取り決めて、互いにハンコを押す。貸すといったのに貸さないとか、返すと言ったのに返さないとかになると、契約違反で罰せられる。ところが、神と私たち人間の契約は片務契約、神の方からの一方的な契約だから、先ほどの貸す借りるで言うと、神が一方的に貸してくれる。これを恩寵と言ってもいいだろう。そして私たちが返さなくても、それで関係を終わりにしない。神はそれを痛みとして、自分のこととして抱え込み、忍耐し、そして赦し、関わり続けるというものだ。 神は、人の罪多い人生に関わり、裁きつつ、赦し、痛みを持ちつつも、私たちの人生を罪あるままに抱え込んでくださるのである。神の痛みの歴史である。苦しむ民、悲しむ民、罪多き民と共におられる神なのである。これは、ハレルヤでなくて何だろうか。

詩編106編は、ハレルヤで始まり、イスラエルの神に対する罪の歴史をハレルヤと括る、なぜだろうか。もう一つの理由を見てみたいと思う。

「神の民」の罪の歴史の中に全く希望がないわけではない。詩編106編の希望は、群れの破れを担う者がいるということだ。23節に「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」とある。破れを担って神の前に立ったモーセとは何者だろうか。彼は神の民の指導者である。しかし、王ではない。祭司でもない。預言者と言われることもあるが、純粋に預言者でもない。彼は神の民の指導者であり、執り成しの祈りを通して群れの破れを担う者だ。ご存知のように、彼は約束の地を前にして、約束の地そのものには入ることができなかった。彼自身が破れを持つ者だった。神の民の指導者とは自らに破れを持ちつつ、なおも、祈りをもって民の破れを担う者のことである。

自らに破れを持ちつつ、群れの破れを担う人がいる、それは、神の民の歴史がハレルヤで閉じられるように執り成しの祈りをもって、神の民に仕える人がいるということである。教会の様々な問題も人間関係も全て神との関係、いかに神を愛するか、それと表裏一体の、いかに人を愛するかということにすべて収斂して行く。群れの人々のために祈る。一人ひとりを覚えて祈り続ける。神がそのような者を神の民の群れに与えて下さっているのである。これはハレルヤでなくて何だろうか。

 

そのように私たちは祈ることが許されている。いや、積極的に言うならば、祈ることができる特権が与えられている。特権には責任が伴う。だから絶えず祈りなさいと勧められている。モーセに限らず私たちも破れを持つ者。しかし、祈ることが許されている。祈る特権が、祈る恵みが与えられている。そして、教会のために、教会につながる一人ひとりのために、名前を挙げて祈る。さらに日本の平和、世界の平和のためにも祈る。神の栄光が表されるようにと、神が賛美されるようにと祈る。このように祈ることができるのは、神の一方的な恩寵である。神は、人の罪多い人生に関わり、裁きつつ、赦し、痛みを持ちつつも、私たちの人生を罪あるままに抱え込んでくださる。神の痛みと忍耐の上にある恵みである。これからも、祈りの奉仕に励もう。