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地の塩、世の光

2021年7月18日 主日礼拝宣教

「地の塩、世の光」 マタイによる福音書5章13-16節

今日の聖書箇所は山上の説教と言われている場面で、主イエスは、13節で「あなたがたは地の塩である」と言われ、14節で「あなたがたは世の光である」と言われる。主イエスが「あなたがたは」と複数形で呼びかけている相手は誰だろうか。51節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とあるから、直接的には弟子たちにと思われるが、その周りには大勢の群衆がいるから、群衆を含めて話されたと考えていいだろう。その群衆はその前の425節に「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」とあるから、弟子たちはもちろんのこと、群衆たちも主イエスに従う者たちとして、主イエスの言葉に耳を傾けたことだろう。同じように、今朝、聖書のみ言葉を聞こうと礼拝に集まってきた私たちにも、この主イエスの言葉は語られている。

さて、主イエスはその弟子たちや群衆に向かって、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と比喩的に語っている。あなたがたは地の塩として、世の光として存在しているのだ。いや、存在するだけではなく、地の塩として、世の光としての働きがあり、それを果たしなさいと勧めている。そして地の塩、世の光としての存在とはどういうことか、またその働きとは何かと具体的に教えておられる。

そこで、今日は少し違った視点でこの個所を読んでみたいと思う。よくキリスト教は実践的な宗教だと言われる。だから、心の中で信仰を持っているだけではキリスト者とは言えない。信仰を直ちに行動に移すことが求められる。信仰即行為なのだ。もっともキリスト者は、世の中の他の人々とは少し異なる行動原理、すなわちイエス・キリストに従うという基準で動く。その結果、社会と摩擦を起こす場合もある。そうなると、キリスト者の中には、このような摩擦を恐れて身内だけで固まってしまう傾向がある。しかし、それは間違いだと主イエスは強調する。地の塩のたとえを見てみよう。

塩が役に立つのは、周囲の食べ物に味をつけるからで、塩だけが固まっていては意味がない。塩は異質な存在であるから意味があるように、自分たちも世の中の基準から少しずれ、変わっているところに意味がある。塩は、自らのために存在するのではなく、他者に働きかけることで初めて意味を持つ。このようにキリスト者も、信者同士で固まっているのではなく、広く外の世界に働きかけることが重要であり、引きこもりになるなと戒めているのだ。集中と拡散が大事。礼拝においてキリストに集中し、そして出て行ってキリストを証しする、その循環が大事。

また、キリスト教はよくヒューマニズムであると誤解される。ヒューマニズムは訳すと「人道主義」。「人道主義」を広辞苑で調べると、「人間愛を根本に置き、人類全体の福祉の実現を目指す立場。その手段としても非人間的なもの(例えば残虐行為)を排斥する。博愛主義とほぼ同義」と書いてある。キリスト教倫理と重なる部分はあるが、同じではない。

今日の聖書箇所の後半、14節以下のいわゆる「世の光」と言われている御言葉が私たちに何を求めているか。主イエスは、私たち、神に造られた人間が、どれほど輝く存在となり得るかを証しすることを求めておられる。しかし、それは、人間存在がどれほど深い闇にあったか、罪びとであるかを知ることと重なる。手放しの人間肯定、理想主義的な人間賛歌とは異なる。罪びとである私たちが、主によって罪赦され、立派な行いに生きるとき、それを見る者は、人間賛歌ではなく、私たちの天の父、全能の神を崇めるようになる。そして、神を崇め、礼拝することこそ、信仰の基本であることを教えている。

16節にあるように、信仰者が塩、光の働きをするのは、自分自身のためではない。それは自分を取り巻く人々のためであり、何よりも人々が「天の父をあがめるようになるため」である。塩や光が役に立つのは、それが周囲に浸透したり、輝かせるからであって、固まってたり、隠されたりしていては役に立たない。また塩も光もその周囲とは異質な存在であるからこそ、意味を持つのであり、さらに、そのどちらもわずかであっても周囲の状況を変えることに注意したい。

 

私たちキリスト者に求められるのは、常に他者性である。他者のために生きる。他者を愛するためには、まず自分こそ愛さなければならない。他者のために生きるには、まず自分自身の人生をしっかり生きなければならない。自分を大事にすると言っていいだろう。自己愛ではない。他者のために自分をしっかり生きるということ。主なる神から与えられた命を精いっぱい生きるということである。神から与えられた恵みに感謝して、その恵みを用いて、精一杯生きるということである。神に感謝して、喜びをもって生きていこう。