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キリストと出会う聖書

2021年7月11日 主日礼拝宣教

「キリストと出会う聖書」マルコによる福音書1章1-15節

 マルコ福音書1章1節~15節は、マルコ福音書全体の序文にあたる。ここには「福音」という言葉が繰り返し出てくる。「福音」という言葉はもう十分に日本語として通用するようになった。辞書を引くと最初に、「心配事や悩みを解決するような、うれしい知らせ」とある。二番目には、「キリスト教で、キリストによって、救いようもない深い罪を持つ人間が救われるのだ、という知らせ」とある。簡潔によく書かれている。

 さて、1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、15節には「福音を信じなさい」と「福音」という言葉が繰り返し書かれている。福音書は、まさにその「福音」を伝えようとしている。福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができるだろう。

 では、「福音」という言葉にはさまれた2節~13節には何が書かれているのだろうか。2節には、旧約聖書の預言書であるイザヤ書に証しされている者として、洗礼者ヨハネが登場する。このヨハネは4節にあるように、人々に主の道を備えるようにと悔い改めのバプテスマを宣べ伝える。78節を見ると、ヨハネは救い主ではなく、自分よりも優れた方を指し示す者として登場している。

 9節からは、主語がヨハネから主イエスに代わる。バプテスマを受けられた主イエスに向かって天からの声が与えられる。「あなたはわたしの愛する子」。荒れ野で叫ぶヨハネの声と、天からの神の声という二つの証言によって、主イエスの1節に書いてある「神の子」であることが確かめられる。

 荒れ野の試みを経て、ヨハネの時の終わりとともに、主イエスの時が始まる(14)。その主イエスの時の始まりは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というもの。こうして、この段落全体が、主イエス・キリストによる福音の始まりを告げている。

 さて、さきほど福音書はイエスの伝記というよりはむしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だと言った。福音書には一つには、イエスが話した言葉が書かれている。二つ目は、ただ単にイエスが語った言葉だけにとどまらず、イエスという人物の行いと言葉のすべて、いうならばイエス自身のすべて、生きざますべてが書かれている。

 例えば、ある人があなたに「私はあなたが大好きです」と言ったとする。そうするとその言葉はあなたにとっての福音。うれしくなるので、良い知らせであるに違いない。でも、それ以上にそのように語りかけてくれるその人の存在こそがあなたにとって福音、良い知らせではないだろうか。嫌いな人から、同じ「私はあなたが大好きです」と言われても、あまりうれしくはない。それは福音、良い知らせにはならない。怒られる時も同じ。信頼している人から「何やってんだ」と言われても腹は立たない。むしろ、「ほんとだ、私、何やってんだろう」と反省し、気を取り直してしっかりやろうと思うだろう。しかし、信頼できない人から言われると、「あんたには言われたくない」でおしまい。本当に信頼というのは大切だし、信頼をつくり出すには言葉だけではなく、その人の生きざまそのものが大きくかかわってくることが分かる。そういう観点から、この福音書を読んでみてほしい。イエスの言葉となされたこと、イエスの生涯、生きざまを見てほしい、読み取ってほしい。イエスとはどういう人であったか、人となりをしっかりと読み取ってほしい。そしてその主イエスと出会っていただきたい。

 イエスと出会うとどうなるのか。それまでの自分が打ち壊されて、やって来た新しいものにとらえられてしまうだろう。ここに方向転換が起こる。それが改心、悔い改め。主イエスの第一声に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるが、そこには、イエスの言葉と同時にイエス自身の存在がある。そのイエスという人物がどういうものであるかをこの福音書の冒頭1節に「神の子イエス・キリストの……」と告白されている。「神の子」で「人の子」イエス、そして「キリスト(救い主)」とあるから、救い主であるといっているわけである。マルコはそのことをこの福音書全体で書き記そうとしたのである。

 

 福音書を読むということは、そのイエス・キリストに出会うことである。福音書を通してイエス・キリストの言葉に出会うこと。福音書を通してイエス・キリストという人物と出会うこと。読んでいくとあなたにとってどうしても引っかかる言葉と出会うだろう。そしてその言葉を発するイエスという人物が気にかかる、不思議に思えたりもする。簡単に理解できないかもしれない。胸にグサッと突き刺さることもあるだろう。いろいろな反応があると思う。そのようにイエス・キリストという存在は私たちを巻き込んでいく。神の国、それは神の支配のことだが、「時は満ち、神の国は近づいた」とあるように、イエス・キリストの到来と共に始まった神の国は、近づきつつあるもの、私たちに迫ってくるのである。私たちを巻き込んでいくのである。その迫りの中で、必ず決断が起こされる。その決断が悔い改めへと導いてくれるのである。方向転換へと導いてくれるのである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。このように宣言される主イエスは今日も私たちと共にあって、神の国へと導いて下さっている。聖書を読むとはそういうこと。