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奉仕ってなーに?

2021年7月4日 主日礼拝宣教

「奉仕ってなーに?」マルコによる福音書103545

キリスト教会では、よく「奉仕」という言葉を使う。では教会で言う「奉仕」はボランティアとは違うのだろうか?奉仕は英語ではサービスと言うので、どうも違うようだ。ボランティアは志願者、自分から積極的に行なう有志的な働きの面が強くある。一方、サービスはさせていただくという面が強いのではないか。確かに奉仕は「仕える」という字が入っている。商売で「出血サービス」という言葉があるが、この言葉、意味深だ。血を流してまでサービスをするというのだから、まさにイエス・キリストの十字架と同じではないか。まさかそんなことまで考えて、出血サービスという言葉を使っている訳ではないだろうが、少なくとも、身を削ってというか、犠牲を払っても、もうけが少なくても売りますよという意気込みなのだろう。私たちもつい、その意気に感じて買ったりする。身に覚えがある。

ところで、奉仕とは「被奉仕の奉仕」だと言う人もいる。それは今日の

聖書箇所で、主イエスが「仕えられるためではなく仕えるために」来た(マルコ福音書1045)と言われて、実際、私たちのために命をかけて仕えきって下さった、だから私も仕える。受けて、与えるというわけだ。確かに、感謝してまず恵みを素直に受け取り、そして率直に分かち合っていくという面がないと行き詰ってしまう。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とも主イエスは言われた(マタイ福音書108)。受けて与える、この思いがないと奉仕はなかなか続かない。自己努力、自己犠牲だけでは限界がある。それに比べると、まず主イエスから恵みを受けるわけだから、分け与えて無くなれば、また主イエスから恵みを受けていく。それを分け与えていく、その循環だ。これが主が私という器を用いて、愛の業をなさっているということ。あくまで、主の働きなのだ。

 では、奉仕する力はどこから受けるのだろうか?それは何をおいても礼拝からだろう。礼拝で私たちのために仕えきって下さった主イエスと出会い、そこから奉仕へと派遣されていくのだ。そう言えば礼拝のこともサービスという。サービスからサービスへ、礼拝から奉仕ということ。そして奉仕する時にこそ、私たちに仕えて下さった主と出会うことになる。

 最後にもう一つ奉仕について考えてみたい。それは、奉仕はあるものを捧げていけばよいのか?ということ。それは一面しか語っていない。ないものを捧げる心も大切。捧げるために○○をお与え下さいと真剣に祈ることもある。あるものを捧げるだけだと、余ったものを捧げることになりかねないので気をつけたい。「主がお入り用なのです」(ルカ福音書1931)という言葉がある。主が求めて用いて下さるから奉仕になる。自分がしたいからではない。自分が持っているから、自分ができるからでもない。「主がお入り用」だからである。あくまで、私たちは主のために仕える僕。それが他者に奉仕することに繋がる。