· 

深い淵から

2021年6月20日 主日礼拝宣教

「深い淵から」詩編130編1-8節

1節に「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」とあるが、「淵」とは、川、沼、湖などの水が淀んでいるところだ。この詩編の作者は、今、その淵にはまってしまったのだ。もちろん、「深い淵」は、ここでは比喩的に使われている。浮かび上がることができない境遇、状況を表している。この詩編には、詩編作者が、なぜ「深い淵」にはまっているのか、どういう境遇にあるから「深い淵」と表現しているのか、何も説明はない。説明がないということは、この詩編作者のきわめて個人的な体験というよりは、個々の私たち一人ひとりが、自らの体験を「深い淵」として、ここに当てはめて、詩編130編を自分の嘆きの詩編にすることができるということだ。自らのつらい体験と重ね合わせて読むことができるのだ。

確かに人は、時に、「深い淵」に陥ることを経験する。にっちもさっちもいかなくなる、あるいは自分ではどうしようない状況に置かれる、そんな経験をされたことはないだろうか。「深い淵」にある者は、どうして自分はこうなってしまったのか、などということを理性的にあれこれ分析しても究極的には、なかなか納得できるものではない。境遇、その置かれた状況というのは、自分だけではどうにもならない、説明できない巨大な力学というか、途方もない大きなものに巻き込まれている、そのようなものではないだろうか。

さて、私たちが注目しなければならないことは、この詩編作者が、「深い淵」から神に「主よ」と呼び掛けて、神に叫び声を上げている、祈っているということだ。これは何を意味しているのだろうか。それは、人が「深い淵」に陥ったときは、遠慮なく、神に呼びかけ祈っていいということだ。いや、もっと積極的に言うならば、何をおいても神に祈るべき、神に叫び声を上げるべきであると、肯定的に促しているようである。神に嘆くこと、神に呼ばわること、そのこと自体がかけがえのない信仰の行為である。遠慮なく、神を呼び求めていいのだ。なぜなら、神への嘆きには、究極的に、神が人の嘆きを聞いて下さる、という信仰があるからである。日本人はよく神も仏もないと嘆く。また、苦しい時の神頼み、ということわざもある。それは何か特定の神仏があって、それへの信仰心(信頼)があっての嘆きだろうか。漂泊の歌人・西行法師が伊勢神宮に参拝した折に詠んだ歌に、「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」がある。これこそまさに日本人の信心そのもの。叫ぶ、祈る対象はどうでもいい、よくわからない。祈ること自体が大事。そこに神仏に対する確たる信頼(信仰)はない。

次に、この詩編には、次のような作者の心情が読み取れる。それは、この詩編作者が、「深い淵」にあって、何にもまして不安に思っていることは、自分と神との間には「深い淵」が出来てしまっているのではないか。自分は神に見捨てられているのではないかという不安である。古代イスラエルにあって、神と自分との間を隔てていると思われていたことの一つは「罪」(不義)だった。その罪は、自覚的、無自覚的な罪も含む。この詩編作者は、その罪を最終的に赦すことのできるのは、神のみであることを知っている。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」(34)。ここには、詩編作者と神の間の隔ての淵に橋を渡して下さるのは、神であると信じる信仰が脈打っている。

さて、この詩編作者のような人が罪赦されたと知る。あるいは、自分の罪から逃げ出さず、それと真に向き合うようになる。それは、どのようにしてだろうか。もちろん、自らの心の中に神からの示しを受けて、あるいは受け入れて確信する場合もあるだろう。それに加えて、もう一つの場合もあると思う。それは、そのような人が、その犯した罪にも関わらず、他の人から、最大限、人としての敬意をもって遇された時だと思う。詩編130編に従えば、神と共に、「深い淵」にある人の叫びが他者によって聞いてもらえる時である。人を愛するということは、その人の深みに「共なる」ということであり、共感することである。

 

私たちすでに信仰の恵みに与っている者は、悲哀と低みにおいて人と出会うことは、それは、そのような人と共におられる私たちの主イエス・キリストと出会うことでもある。だから、そのことを大切にしながら伝道・牧会活動に励んでいきたいと思う。それは、苦難と恥の生涯を送られ、復活され、今も生きて働きたもう主イエス・キリストの体なる教会に連なる証しでもある。