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積極的な祈り

2021年6月13日 主日礼拝宣教

「積極的な祈り」使徒言行録4章23-31節 

 今日のテーマは祈りについてである。祈りはキリスト者の信仰生活にとって中心にあると言われている。祈りに始まり祈りに終わる日々の生活。祈りこそ、生活の真ん中にある。でも、他宗教でも祈る。また神を信じない人だって「ご健康を祈ります」など手紙の最後に書いたりする。キリスト教の祈りとどこが違うのか。キリスト教の祈りは、困った時の神頼みで祈り、願い、拝み、のど元過ぎれば熱さ忘れるで終わってしまうのとは違って、生ける神に聴き、神と対話するものだ。

 宗教改革者であるカルヴァンは『キリスト教綱要』で次のように書いている。「祈りの目的は私たちの心が神へと向けて高められ、その栄光を願い求め、神への賛美を公にし、困苦の中では助けを乞い求めることにある。……すなわち神と対話しつつ神の向かうことである」。「神に向かうこと」とあるが、それは神と共にあろうとする魂の不断の方向で、磁石がいつも北を向いているように、いつも心が神に向き、神に聴くのが祈りである。だから「神との対話」となるのだ。

 さて、以上のようなことを頭に入れながら、今日の聖書箇所から祈りについて深く教えられたいと思う。

今日の聖書箇所は、伝道を行なったため捕らえられたペテロとヨハネが、釈放された後、仲間のもとに帰り、起こった出来事の一切を報告したところから始まる。そして「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて」祈ったのだ。「心を一つにし、神に向かって声をあげる」ことのできる、それこそが教会と言うべきだろう。彼らの祈りには、深刻な事態にも関わらず悲壮感はうかがわれない。「脅迫などないように」という哀願もない。むしろ、彼らは「脅しに目を留め」(4:29)という言葉が示すように現実をしっかりと受け止め、そこで「思い切って、大胆に、御言葉を語ることができるようにしてください」と祈り願ったのだった。世が神にどれだけ逆らっても、天地万物の創造者にして、歴史の真の支配者である神の救いのご計画が揺らぐことはないという確信に立った信仰で祈っている。

 彼らがこの困難な中で祈った祈りには、いくつかの特徴がある。第一に彼らは、この苦難の中で主イエスの十字架を見上げて祈っている(4:27-28)。 十字架は苦難であるが、同時にそれは神の勝利でもあるのだ。なぜなら、十字架に復活の喜びが続くからである。復活を仰ぐ時、十字架は喜びと力の泉となる。私たちは苦難のない信仰を求めてはならないだろう。なぜなら苦難をとおして、必ず勝利のあることを知っているからだ。ダビデを通して預言されているように、たとい周りがどんなに騒いでも、空しいことを計っているにすぎないのだ(4:25)。だから、私たちは、主イエスはすでに復活において世に勝利されているという信仰に立って祈ることが大事ではないだろうか。

 祈りの第二の特徴は、神の定め、予定の信仰である。「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」(4:28)と祈っているように、彼らはこの予定の信仰にもとづいて祈り求めたのだ。ここに信仰の秘儀がある。神が与えてくださるものは、死であれ、生命であれ、悲しみであれ、喜びであれ、良きものとして受けようとしたのだ。予定とは、運命ではない。運命には計画がない。愛も希望もない。予定とは神の愛のご計画。上からのご計画にほかならない。人間の罪が荒れ狂う、その場所にも、神の愛の計画が厳然として存在しているのだ。私たちは、このような不思議な神の定めを信じているだろうか。難しいことだ。しかし、「聖霊によって」(25)とあり、「聖霊に満たされて」(31)とあるように、それは聖霊の助け、聖霊の働きなしにはできないことだから、私たちは。聖霊の働きを祈り求めることが求められている。

 

 第三に、彼らは祈りの中で決して敵を攻撃していないこと。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(4:29)。こう祈っただけだ。ここで、「どうか神に背く者らを、滅ぼしてください」とは祈っていない。その必要はない。というのは、神が彼らを守る手段を知っておられるからだ。祈りには、求める面と任せる面とがなくてはならない。信仰者を守ること、それは神がしてくださること。それについては、神に任せきることが大切である。しかし、その中で反対に、積極的なことを求めてゆかなくてはならない。彼らが積極的に求めたのは、み言葉の遂行。「僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りだ。私たちに求められているのは、御言葉に固く立って、御言葉に教えられ導かれ、励まされていくこと。そして、最善をなしてくださる主のみ手に委ねつつ、積極的にみ言葉を宣べ伝えることが求められている。それにはまず積極的な祈りから始めよう。