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学びのないところに成長なし

2021年6月6日 主日礼拝宣教

「学びのないところに成長なし」テサロニケの信徒への手紙一1章58

 教会は礼拝するところでもあるが同時に学ぶところでもある。テストはないが卒業もない。それだけに自分の責任できちんと自分にふさわしい仕方で学ぶことが求められる。では、教会で学ぶとは、どういう意味を持っているのか。そのことをテサロニケの教会の姿から見ていこう。 

テサロニケの教会は多くの苦しみの中で、神の霊による喜びに生きていた(6節)。そして何をしているのかというと、ひとつはみ言葉を受け入れているのである。神の言葉として受け入れるということは、きちんとその言葉を理解しなければ成り立たない。なにも理解せず、なにも分からないけど信じますでは、それは妄信であり、それが洗脳ということにつながりかねない。

 言葉というものは一つには意味を伝える。もう一つは、そのように伝える意味するところが、きちんと一つの筋道を持っていること。論理性である。よく言われる「言語明瞭、意味不明」では、言葉は言葉の働きをなしていない。最近の政治家や官僚の発言なんかにも時折みられる。

神の救いというのは、きちんと筋道が通ったことである。ただし、私たち人間が考えるような筋道とは違う。それは神の真理、神の論理としての筋道である。神の救いについて、その内容(意味)をきちんと理解するということ、その神の救いが持っている筋道を良くわきまえるということ、この二つのことが、み言葉を学ぶという時に大切なことである。これが良くわかり、納得でき、自分の知識と論理となる、その時に初めて私たちはみ言葉を受け入れたと言えるようになる。教会は、そのようにして神のみ言葉について学ぶところである。

 しかし、テサロニケの信徒への手紙一は、そのことだけを語ってはいない。「み言葉を受け入れ、私たちに倣う者、そして主に倣う者となり」(6節)と語られている。「倣う」はまねること、模倣すること。「学ぶ」は「まねぶ」、つまり「真似をすること」だということはよく知られている。だから学ぶということはただ言葉を覚え、それを理解するだけではないのです。真似をするとは、言葉だけではなく、言い換えれば知識だけではなく、体を動かさねばならない。手足を動かし、あるいは口も動かす。言葉も態度も生活もひっくるめて真似をすること。言葉と生き方が一つになるような学び方をしなければならない。そして変わること。学ぶということは変わるということ。

 続けて読んで行くと、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」(7節)とある。ちょうどテサロニケの教会の人たちがパウロや主イエスの真似をした。それと同じように、今度はマケドニヤとかアカイアとか他の地方にいる人たちがテサロニケの教会の人たちを手本にしてその真似をすることによって、信仰とは何か、み言葉とは何か、そのみ言葉によって生きるとはどういうことかが身に着く形で学べた。そう言っているのだ。ここに、真似をされ、真似する人たちが作る系列がつながっている。私たちもあの人のようになりたいと思い、その生き方を真似ようとする。

 

キリスト者の場合、その真似(学び)の原点は主イエス・キリスト。そこから始まる真似(学び)の流れのなかで、結局何が起こっているのでか。「主の言葉が響き渡った」(8)のである。パウロはこのテサロニケの教会をあらゆる教会に先立って形作ったとき、このような意味で「学ぶ教会」を作ったのである。根本のところに座っておられる元の元は主イエス・キリストである。教会の根拠となり、常に教会形成の力となるのは、神の言葉である。そして、その主イエスの真似(学び)をしながら、神のみ言葉に聴き続ける、学び続ける、そこに教会があり、教会の成長があり、一人ひとりの信仰の成長があるのだ。