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安息日は人のために

2021年5月30日 主日礼拝宣教

「安息日は人のために」マルコによる福音書223節-3章6節

 今日の聖書箇所は、ともに安息日にかかわる話である。223節から始まる最初の話は、弟子たちが安息日に麦の穂を摘み取ったという話。そのことで、イエスがファリサイ派の人々と「安息日」について議論をされる。イエスの弟子たちは、「歩きながら麦の穂を摘み始めた」(223)とあるから、空腹に耐えかねて畑の穂を取って食べようとしたのだろう。でも、大人が他人の畑の麦の穂を取って食べれば、それは「盗む」ことになり、十戒の「盗んではならない」という教えに反するものだ。弟子たちの行動を見たファリサイ派の人々が、血相を変えてイエスに迫ってきたのは当然である。彼らはモーセの律法をなによりも重んじていた人々だったからだ。

 しかし、思わぬ展開がここで起こる。ファリサイ派の人々は、弟子たちの「盗んだ」行為ではなく、「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と、弟子たちが安息日の規定を破る行為をしたと批判したのだ。それは彼らが麦の穂を摘んだことにあり、その行為は律法では労働とみなされていたからである。出エジプト記20810節に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」とある。この十戒にあるように、安息日に仕事をすることは禁じられていた。にもかかわらず、イエスの弟子たちは麦の穂を摘むという労働をしたことをファリサイ派の人々は批判したのだ。あまりにも律法主義的で、荒唐無稽なことと思われるのだが、しかしユダヤ人たちにとっては、安息日は最も大切なモーセの律法として守らねばならないものだったのだ。

この批判に対して、イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、安息日の本来の意味を問い返している。この安息日に関する規定については、十戒の中だけではなく、他にも書かれている。出エジプト記2312節には次のように書かれている。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復すらためである」。この安息日規定が最も古いものとされているのだが、そこでは仕事を休む理由として「あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」となっているのだ。

 ここでの「休む」という言葉は、字義通りには「励ます」とか「元気を出させる」という意味。安息日の規定は、それが律法の掟であるから守らなければならないのではなく、本来は人々を毎日の過酷の労働から解放し、元気を回復させるためにあるということだ。それも律法の民と自負するユダヤ人にではなく、酷使されている牛やろばのために、また激しい労働を課せられている女奴隷の子や寄留者のために安息日はあるということだ。そのように理解すると、安息日の意味が全く変わってくる。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とイエスが言われた、ここでの「人」とは、女奴隷の子や寄留者も含まれるのであり、さらに牛やろばも含まれると理解してよいのではないだろうか。

 さて、次の31節からは、イエスが手の萎えた人を癒すという話。「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」とある。ユダヤ教の会堂の真ん中はラビたちが律法について教える講壇があるところ。この講壇のところに立ちなさい、と言われたことは、会堂に集まっていた人たちにとっては驚きの言葉だったに違いない。なぜなら、当時は体の不自由な人々は律法から最も遠いところにいるとみなされていたからだ。だから、彼はいつも会堂の片隅に隠れるように座っていた。その人に向かってイエスは「真ん中に立ちなさい」と命じられたのだ。会堂の真ん中、そこには聖なる律法の巻物が置かれ、朗読するラビたちがいる、そのところにこの片手の萎えた人が立つのだ。人々は驚き呆れたことだろう。しかしイエスは真ん中に立つことを命じる。律法の巻物に代わって、律法学者やラビたちに代わって、この人こそ会堂の真ん中に立つべき人だったからである。主イエスにとって、安息日こそ、苦しみを持つ人が解放されるのにふさわしいとお考えだったのだ。だから、いまや律法の巻物ではなく、律法から最も遠いとされていた人が真ん中に立つのだ。

 このことはとても大切なことだと思う。学問や技術、文化や思想はもちろんのこと、政治や経済も「人が真ん中」でなければならないのだ。しかし、実際は人が真ん中どころか、隅っこに追いやられているのが現実ではないだろうか。オリンピックは人のためにあるもの、人がオリンピックのためにあるのではない。その「人」とは日本の国民だけではない。全世界の人々を指す。今世界中でコロナ禍のために苦しみ悲しんでいる多くの人々を隅に追いやり、目に入らぬかのように、オリンピック開催に血ナマコになっているIOC、日本政府、都知事以下の関係者。この主イエスのみ言葉に耳を傾けよ。

 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」というみ言葉がこの会堂の中でも共鳴している。安息日の礼拝において片手の萎えた人が会堂の真ん中に立った時、安息日は人のために定められた、というイエスの言葉が成就するのだ。

 

 私たちはよく礼拝や集会などでの祈りの時、主イエスが私たちの真ん中にいて下さり導いてくださいとお祈りをする。もちろんそこに主イエスの姿は見えないが、目には見えない主イエスを見上げつつ礼拝や集会を行う。その主イエスは、ときには片手の萎えた人として、ときには病気で苦しむ人として、そして時には教会に来られない人に代わって、会堂の真ん中に立っておられるのではないだろうか。十字架にかけられたイエスとして。